美輪明宏:『毛皮のマリー』

2019.4.4㈭14:30 初台 新国立劇場 中劇場

  咲き綻んだ桜が折からの風に吹かれ、薄紅色のに舞う昼下がり、初台にある新国立劇場 中劇場に美輪明宏さんの『毛皮のマリー』を観に向かった。

 母の影響からか、物心ついた時から憧れの人、美輪明宏さんのずっと観たかった『毛皮のマリー』を観られる事に胸を轟かせロビーに足を踏み入れると百花繚乱に咲き乱れた美しい花が溢れ、仄かにお香の良い香りが漂っていた。

 そのまま、劇場へ入ると劇場内全体に微かにお香の馥郁たる香りの薄衣がふわりと広げられたように薫っていた。舞台が始まる前から、美輪明宏さんの細部にまで心を配った『毛皮のマリー』の世界に包まれていた。

 1階席の左側前から15列目通路に近い席に着くと、目の前には、美しい猫足のバスタブが、舞台の左側に置かれた舞台がある。

 違いはあるが、舞台装置も内容も青蛾館の『毛皮のマリー~オリジナル~』と大きく異なることは無いので、青蛾館の『毛皮のマリー~オリジナル~』の観劇ブログを見て頂ければと思う。

 『毛皮のマリー』と言えば、美輪明宏さん。マリーの執事と言えば、麿 赤児さん。私が、ずっと観たかったこの最高の組み合わせの『毛皮のマリー』を胸をときめかせて観た。

 マリーが留守にしている間、執事は、裾に螺旋状に毛皮があしらわれた紅いドレスに身を包み、紅い口紅を引き、マリリン・モンローのようなプラチナブロンドのカツラを被り、「醜女のマリー」となり、『馬より逞しい死を望んでいる』事を語り、踊る場面の麿赤児さんの手の動きがしなやかで、妖艶でありながら、今宵もまた『馬よりも逞しい死』を得られなかったことに落胆し、執事の姿に戻って行く「醜女のマリー」、執事の切なさが滲んでいたように感じた。

 美輪明宏さんのマリーは、ラストへと向かうに従い、欣也の母金城かつ子を陥れ、初手はかつ子への復讐の為に欣也(藤堂 日向さん)を引き取り育てようとした毒婦のような母から、欣也を少年のままの姿で留め、部屋から出さないようにしていたのは、欣也を育てる内にマリーの中に芽生え育った母性から、欣也を世の醜いことから護り、傷つかないようにする為だったと変わって行き、マリーの元を出て行ったものの、マリーの呼ぶ声に導かれるように戻って来た欣也にドレスとカツラをかぶせ、女の子として生きさせようとしながら、「どうしたら、この子を護れるだろう」と欣也を抱きしめ繰り返す姿は聖母めいて見えた。

 それは、ラストマリーが白いドレスで欣也と現れ、天から射す金色の光に包まれたマリーは、聖母そのものであった。

 そのマリーの姿を見て、『毛皮のマリー』は、激しく強すぎるが、見返りの無い無償の愛で息子を包み、思う母の愛の物語であり、その強過ぎる母の愛に怯え、それがいつしか憎悪に変り、逃れようとするもその愛の強さと大きさに抗えず、己もまた、無償の愛を惜しみなく注ぐ母に愛を感じ、振り払いきれない共依存にも似た思いに葛藤する息子の物語でもあったのではないかと感じた。

 この『毛皮のマリー』は、寺山修司自身と母の関係を描いた話とも言われている事から考えても、あながち私の抱いた感じは間違ってないのではと思う。

 カーテンコールで、藤堂 日向さんの欣也と現れた美輪明宏さんの毛皮のマリーは、神々しいまでに美しい聖母そのものであった。

 何万語の言葉を並べても、陳腐で安っぽくなってしまうだろうが、一言だけ言えるとしたら、本物を観たという事である。この舞台を観られて良かった、幸せだということ。

 『きれいは汚い、汚いはきれい。』シェークスピアのこの言葉が美輪明宏さんの『毛皮のマリー』を観ながら頭に浮かんだ。美輪明宏さんの毛皮のマリーは、正にこの言葉を体現していた。猥雑さの中の美しさ、美しさの中の猥雑さ。そして、全てが美しい 深く濃く、マリーの母の愛のが胸に迫った舞台だった。

文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

0コメント

  • 1000 / 1000