2018.12.12㈬ PM15:00 千歳烏山 アクト青山アトリエ
冷たい風が、コートの襟元から忍び込む昼下がりの千歳烏山を、演劇集団アクト青山テアスタ(冬)『近代能楽集〈破〉』を観る為に急ぐ。
アトリエに入ると、フロアの真ん中に十字に組まれた舞台があるだけ。今まで観た演劇集団アクト青山の舞台の中で、一番シンプルな舞台装置だけれど、この十字架型の舞台の上で織り成されるのは、今まで観た演劇集団アクト青山の舞台の中で、観終わった後にいつもの様な観劇ブログを書くのが難しい舞台。
観終わった後に、思った事は、“凄い”の一言に尽きた。凄いもの観てしまったというしかない程に、凄く面白い、なのにそれを言葉にするのが難しい。説明するのではなく、考えるのではなく、感じる舞台。だから、今回は、いつもとは違う、直感的に感じた事をポソポソと感じたままに書いてみることにする。
そんな難解なテアスタ(冬)『近代能楽集〈破〉』とはどんな舞台なのか、要約出来る限りで書くとこういう物語である。
入院して毎夜うなされ苦しむ妻・葵のもとへ、美貌の夫・若林光が見舞いに訪れ、看護婦こら毎晩ブルジョア風の女が見舞いに来ると知らされる。
光が病室にいると、銀色の大型車に乗って光とはかつて恋仲であった六条康子が現れた。
病室には、かつて2人で乗った湖上のヨットが現われ、康子は幸福だった昔の思い出を語り出し、光に復縁を迫り、一瞬の2人の恋の蜜月だった頃の記憶を呼び覚まされた光だったが、葵のうめき声で我にかえり、康子の愛を拒絶するのだが…。
「近代能楽集〈破〉」は、三島由紀夫の「近代能楽集」より、「班女」「熊野」「葵上」のテキストを解体・再構築し、紫式部の『源氏物語』五十四帖の中でも、能や狂言にもなり、よく知られる『葵上』を軸にし、小西優司さんがギリシャ神話の要素を取り入れた新釈版として、演出を手がけ、出演している作品。
何年か前に、知り合いの女優さんが三島由紀夫の『近代能楽集』の卒塔婆小町を演じた舞台を観に行った時に、三島由紀夫の『近代能楽集』を読んだのだが、『斑目』と『熊野』の話の内容はうろ覚えなので、20代の頃から様々な作家の訳で読み、印象深い『葵上』多めで解る事、感じた事を書きたいと思う。
『源氏物語』の『葵上』は、年上の才色兼備、知的で理知的な六条御息所が、年下の光源氏との恋により、嫉妬で生霊になり、光源氏の正室身重の葵上の元に夜な夜な現れては苦しめ、憑(と)り殺そうとする事に、朝が来る度に気づいては、自分の妄執、女の業に戦き恐れ、苦しみ、源氏への念(おも)いを断ち切ろうと葛藤する、若い男に狂おしいまでの恋情を抱き、若い男の気紛れな恋の戯れに翻弄される女の情の業の悲しさと切なさを感じさせる六条御息所に描かれているのだが、竹田真季さんの六条康子は、女の業、狂おしい情念と妄執の恐さを強く感じ、それ故に観終わった後からじわじわとその中に込められた女の情念の、康子の悲しさを感じ胸を突く。
竹田真季さんの最初は老婆のような声と所作だった康子が、光(廣田明代さん)との回想シーンになった途端に、妖艶で甘く匂うような声としどけない所作に変わる、川の水がすうっと湖に流れ込むような滑らかな変化に心を奪われた。露出があるわけでも露骨な台詞がある訳では無いのに、光との睦み合いの場面はそれ故に官能的で見ていてドキドキする程艶かしかった。
衣装は、小西優司さん以外は、ギリシャ神話の神々を思わせるような白い衣装で、小西優司さんだけが黒い衣装。
十字型の舞台の四隅や中央で、光と康子、葵(木村優希さん)と光、實子(華奈さん)と花子(額田礼子さん)、ユヤ(蔭山みこさん)と宗盛(小西優司さん)、吉雄(佐古達哉さん)と花子、看護婦(葵ミサさん)と光、マサ(出田君江さん)とユヤ、ユヤと朝子(寺井美聡さん)など、『葵上』『斑目』『熊野(ゆや)』の登場人物たちと物語が、時に交錯、交差しながら織り成されてゆく『近代能楽集〈破〉』。
小西優司さんが女性達を後ろから抱き竦める場面は、夜が朝を抱きしめているような、夜が、女の情念と業に狂おしく苛まれる女、孤独に喘ぐ女、男の独占的愛の支配に心壊れてゆく女たちを包み込んでいるようにも感じた。
中盤まで、若い愛人ユヤ(蔭山みこさん)を、囲う金持ちの壮年の実業家のような声音と所作が、気がつけば終盤に向けてリア王のような老年の男の声音と所作に変わっていた。それは、意図したものであるのだろう。リア王だとすれば、それは、心を閉ざし許さないユヤへの絶望めいたものと大切なものを喪失した事を悔いを表しているのだろうかと思った。
黒いこうもり傘を差して雨の中に佇む山田(高村賢さん)の姿が、『源氏物語』に出て来る一場面を描いた一幅の絵のようだった。
とここまでこの舞台を観て感じた事、思った事をそのままに書いてきたけれど、1度観ただけではまだ、『近代能楽集〈破〉』を咀嚼消化し切れてはいない。それは例えて言うなら、様々な芝居を乗せた演劇という絶叫マシンに乗った様な感覚になる舞台であり、頭も全身も感情も全てを混ぜ合わされ、撹拌され、シャッフルされる感覚になる舞台。
今思い起こして思うのは、夜にひらひらと舞い散る桜の花のような美しい舞台のイメージ。
けれど、そこに描かれているのは、繰り返しになるが、“凄い”という一言に尽きる世界であり、舞台である。
観る人によって、好みの分かれる舞台だと思うが、私は小西優司さんの演出によるこのテア『近代能楽集〈破〉』が好きだ。
今日が千穐楽。14時と18時、この2回で終わってしまう。何が、どう“凄い”のか、お時間のある方は、その目で観て、感じて欲しい。
考えるのではなく、感じる舞台だから。
文:麻美 雪
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