演劇集団アクト青山:テアスタ・オーロvol.6『報い』

 2018.11.23㈮ PM18:00 千歳烏山 演劇集団アクト青山アトリエ

 前日の曇天が嘘のように、麗らかに晴れた勤労感謝の日の夕暮れ、千歳烏山のアクト青山のアトリエに、演劇集団アクト青山テアスタ・オーロvol.6『報い』を観る為に居た。

 アトリエに入り、左手最前列の真ん中の席に着くと、目の前には扇状に開いて置かれた銀イロに光る美しいトランプとアンティークな置時計らしき物と、小さな古びた呼び鈴が置かれたマントルピース風の家具がある。

 その右横には、水差しとグラスの置かれた年代物の台、その斜め前には、二客のティーカップとガラスの灰皿が置かれた小さなコーヒーテーブルと使い込んだ背もたれのない四角い一人用ソファーが向かい合わせに置かれたテーブルのすぐ上にモネ風の絵、マントルピース風の家具の左横には、黒地に銀糸で模様が織り込まれた猫足の人利用チェア、舞台の真ん中には1台の車椅子。

 その少し先に、4つの写真立ての置かれた年代物のチェストとその横に洋酒やグラス、オレンジ色の光を放つ卓上のアンティークスタンドランプやら何やらが乗った木製のライティングデスクと椅子、そこから少し間を空けて布張りの座面に木製の背もたれのある二脚の椅子が置かれたこの話の舞台である南條家の居間が設えられていた。

 あらすじは、双子の子は忌まわしいというそれだけの理由で双子の内1人は家から出される(捨てられる)という南條家に続く悪しき習慣。高度成長期を迎えた日本で財閥にも匹敵する起業家南條が味わう「報い」とは?家族の意味と在り方とは…という内容。

 「双子は忌まわしい」、観る前、この言葉から横溝正史と横溝正史と言うと必ず対になって連想する江戸川乱歩を想起した。観た直後の感想は、横溝正史+江戸川乱歩÷2×何か=好きだなこの舞台であった。

 「報い」というと、報復、復讐の「報い」を連想しがちだが、この舞台の『報い』は、忌まわしいとされ南條家に仕える里見(渋谷結香さん)に命じて捨てたと思われていた双子の姉妹の姉祥子(岩崎友香さん)が、実は里見によって育てられ、大人になった祥子が南條家を訪れ、父の事業を受け継ぎ、父と共に事業を発展させ、今まで育ててくれた母の想いに報いたいという母の思い、人の思いに報いるの「報い」である。

 探偵、弁護士、双子の妹とその恋人産みの母、南條家当主雄一郎の今は亡き母、雄一郎の若い後妻、その妻と恋仲の医師、里見の同僚。様々な人間たちが、南條家の居間で織り成す、家族の意味と在り方とは?人が人の思いに報いるとは?観ている間だけでなく、観終わってからも、そして、一回書いたブログをもう一度書き直している今もずっと考えつづけてしまった舞台。

 この舞台について、書くのは難しい。この『報い』のテーマになっている、家族の意味と在り方について、私は語り得ない部分があるからである。

 私にとって家族とは、母が生きていた頃は、外でどんなに辛く悲しい事があっても、帰れば温かく優しく包んでくれる場所であり、ハハがいてくれればこその唯一の心の拠り所であり、私が私でのひのびといられた場所であったが、母が亡くなってからは、自分の居場所もなく、孤独で外より何処より一番緊張を強いられる場所になり、父と二人で過ごした30年間は、帰りたくない場所、一生独りで父の面倒を見ないとならない、抜け出せない檻のようにも感じていた場所でもあった。

 母を亡くした時、父も亡くしたと私は思った。父も兄も母を亡くした自分の悲しみにを見つめるのに精一杯で、私の気持に思い至る事などなかったから。母を亡くした15歳の時の、私は家庭も家族も失くしたような思いを抱えて育って来たから、早くに自分の居場所としての家族と家庭が欲しいと切実に願いつつも、そんな思いで家族を家庭を持つ事は己の身勝手であるとの思いから、何処かで家族や家庭を持つ事を恐れていたのもあるかして、未だに家庭も家族も持たない私は、だから、家族の意味も在り方も語る術を持たない。

 が、今年父を亡くし、諸事を通して父や家族について考えさせられる事が多かった数ヶ月を経ての『報い』を観て、様々な思いが過ぎった。

 一番身近に居るから疎ましく、時に面倒でもあり、確執も摩擦も起こり、不用意な行動や言葉で一生消えない傷や遺恨を残す事もあり、許せずに憎み、恨む事もある。その反面、何かあった時に結束し、頼りにもなり、救われ、拠り所となるのもまた、家族であるということ。

 家族の数だけ、家族の在り方があり、それに正解も間違いもなく、ただそこにあるのは、その家族なりの家族の在り方であり、意味である。自分にとっての家族の意味と在り方が解るのは、もしかしたら、命果てるその時なのかも知れない。

 『報い』には、南條の家と家の秩序を守ろうとする事で、連綿と続いて来た南條家の人々と歴史に報おうとした南條の母(やまなか浩子さん)の思い、祥子を捨てるに偲びなく捨てる事に躊躇いと拒絶の気持ちを持ちながら、双子を生み、自ら屋敷の奥の部屋に軟禁された妻多恵(額田礼子さん)の想いと行動に、母の命を受け祥子を捨てる事を引き受け、ずっと南條の傍にひっそりと寄り添い続けてくれた里見の想いに報い、血の繋がらない自分を本当の娘のように愛し、慈しみ育ててくれ育ての母里見の想いと愛情に報いたいという、幾人もの人の思いに対しての『報い』が交差し織り成して描かれているように思った。

 人が人を想い、思いに報いたいと思うが故に、時にすれ違い、誤り、その想いが交錯し、事が複雑になったりもするのではないか。

 恨んで、その相手に償いとしての『報い』を求めても、物事はより良き方にいくはずもなく、更に恨みや憎しみを募らせ血で血を報わせる事にしかならない。

 誰かの為に、人の心に、思いに応えようとする、人の心と想いに報いようとした時、人は許し、許され、悪しき習慣も連鎖も断ち切り、より良き方に向かって行くのではないか。

 そして、それそこが、南條が求め願った家族のあり方であり、家族の意味でもあったのではないか。

 そこでまた、自分に問うてみる。私にとっての家族とは?私は、誰の何の思いに報い、報えばよいのか。その答えは、まだ、出ていない。ただ、ひとつだけ言える事があるとすれば、私を必要とする人がいてくれるならばその人のため、愛情をかけて育ててくれた母、関わった全ての人から頂いた温かな心に報いたい、一片なりとも報えたらと思うということ。

 書き直しても尚、この『報い』の思いをきちんと受け取り、書けているのか解らないし、書くのはやはり難しい。だから、これからもずっとこの『報い』の事を、私は事ある毎に考え続けるのだと思う。今、私に書ける全ての言葉と思いをもって書き切ったとだけは言える。

 母の事を想い、父を思いながら観た『報い』は、ギュッと圧縮した濃密な舞台であり、時間であり、ずっと考え続けてしまうであろう宿題を手渡された舞台でもあった。

文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

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