2018.11.3㈯ PM14:00 阿佐ヶ谷シアターシャイン
朝起きたら、唐突に風邪をひいていた。うっすらとした喉の痛みとぐずつく鼻、幸い体もだるくなく、熱もなかったので昼下がりの阿佐ヶ谷に、劇団TremendousCircus『La Barbe Bleue~青髭~』 を観る為に足を運んだ。
途中、薬局で薬とビタミン剤を買い、劇場近くの美味しいお蕎麦屋さんで冷たい山菜蕎麦を食し、薬を飲んでシアターシャインへ向かう。
劇場に足を踏み入れ、2列目までは血糊が飛ぶかもしれないのでと配られたビニールシートで、体を覆うようにして席に着く。
私のすぐ横には、歌舞伎で言う花道があり、目の前の舞台には、5つの扉と扉の上には、恐ろしげな山羊の頭部のエンブレム(家紋のようにも見える)が配置され、その左手には、頭に王冠のようなものを載せ、ドレスの袖を腕に纏ったような一体の骸骨が配置されている。
此処は、5人の妻を殺したと言われる青髭公の館の中。この館の中で繰り広げられるのは、陰惨で、狂おしい絶望と悲しいまでの愛ともやり場のない切なさと痛み、最後に微かな光が見える、稀代の連続殺人鬼として映画や小説などにもなった、有名なあの青髭公の胸の内の真実を描いたの物語。
シャルル・ペロー原作の『青ひげ』は、実は、グリム童話の初版に載っていたが、2版では、『青ひげ』と同じ内容の『人ごろし城』という話も共に削除され、その後再び掲載されることはなかったという。『本当は怖いグリム童話』でも知られる事だが、グリム童話は、初版の翻訳本を読んだ事があるが、結構残酷でグロテスクなものも多い。グリムに限らず海外のお伽噺や昔話は、言う事を聞かなかったり、悪い事をしたらこんな悲惨な結末を迎えるから、悪い道に走らないようにという教訓を与える為に書かれたものが多いので、悪人は徹底的に悪く、結末もえげつない程過酷なものが多い。
グリム童話から削除されたのは、とは言え余りにも残酷で醜悪な為、子供に読ませるにはあまりにもと言うことだったのではないか。もうひとつ、蛇足ならが言うと、グリム童話(グリム童話とペローの『青ひげ』にはいくつか微妙に違う点がある)には、話の提供者がいたとも言われていて、それが、この『青ひげ』の原作者、シャルル・ペローと言われており、シャルル・ペローは、『シンデレラ』も『シャルル・ペロー童話集』の中で、紹介しており、シャルル・ペロー版の『シンデレラ』も結構残酷に書かれていて、ディズニー版の『シンデレラ』で育った人にはかなり衝撃的な内容になっている。
劇団TremendousCircus『La Barbe Bleue~青髭~』 は、シャルル・ペローとグリム童話の初版に収められた『青ひげ』を基にしながら、何故、青髭公は5人の妻を殺したのか?人の命は尊いと言うが、大量殺人鬼の命は本当に尊いのか?青髭公の胸に宿っていたものとは何かを描いた舞台。
【 あらすじ】
髭が青く見えることから、「青髭」と呼ばれた男は、5人の妻を迎えたが、その妻たちはなぜか皆ある日突然行方不明となる。紆余曲折の末そこに嫁ぐことになった娘ユディットに、青髭は、自分が不在の間、城の数多ある部屋の鍵束を託し、「どこに入ってもかまわぬ。だが城の一番奥にある“小さな鍵の小部屋”だけは開けてくれるな」と言い残していなくなったのだが…。
観終わったあと、胸に残るのは蒼い闇に射す微かな光。決して、愉快爽快な気持ちにはならず、青髭がもっと早くに青髭の全てを知って尚、一緒に地獄に落ちると闇のそこまで墜ちてくれる程愛してくれたユディットと出会っていたなら、彼は大量殺人鬼になる事はなかったのかも知れないという思い。
シャルル・ペロー原作、グリム童話初版に載っている『青ひげ』を基に、TremendousCircusの色彩を色濃く反映したこの舞台は、扱われている問題や題材から賛否両論別れると思うが、私は、青髭が青髭にならざるを得なかった、絶望と苦しみ痛みを感じた。
稀代の殺人鬼としてのみ認識論される青髭だが、高校生の頃、グリムの初版を読んだ時、青髭にならざりを得なかった、青髭の痛み、苦しみ、絶望、何故殺人鬼になったのかその事を考え胸が抉れるよう痛く、可哀想にすら思ったあの時と同じ気持ちが胸を塞いだ。
固執し、行き過ぎた善を人に突きつけ、求め、激しい善で闇に堕ちざるを得なかった者を追い詰め、糾弾する時、善を光とするならば、その善は、その光は白い狂気と凶器になるのではないか。白いが故に、非難できない所にまで言ってしまった善は、光は、それもまた闇ではないのか?
人間の善とは?悪とは?青髭を狂わせて行ったものは何だったのか?自分の中にもあるかも知れない悪。悪に落ちる者と善を成すものものの違いとは。前と悪も光と影のように表裏一体なのでは?
決して誤解して欲しくないのは、この舞台も、劇団TremendousCircusも私も殺人鬼や殺人を是としているのではない。
昨今のニュースに取り上げられる殺人犯とは違う、壊れて行く状況の違いが青髭にはあるのではないか、青髭は、果たして生まれ持っての殺人鬼、悪魔をだったのか?生まれながらの悪人が居るのだろうか?ということであり、その問をこの舞台は投げかけている。
舞台の最後、行き過ぎた善の目を射抜くような光が、和らいだ光になり、微かな一点の光が見えた気がした。その柔らかな光で包んでくれる人が、一人でもいたなら、人はすんでのところで闇の底に堕ちずに済むのではないか、そんな事を感じた舞台だった。
文:麻美 雪
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