芸術集団れんこんきすた:『れんこんきすた芸術祭』~芝居編③~

 『木立によせて』2018.10.28観劇

 『木立によせて』は、あまりにも好きであると同時に、語るのが胸を抉られるようでとても書くことに対して、決心がいる。

 もうどうにも涙が止まらい。去年の初演を観た時の観劇ブログに書いた以上の事が私には書くことが出来ないので、どのような舞台で、私胸を何がそんなに抉ったのかは、その時のブログをお読み頂ければと思う。

 その上で、敢えて記すなら、『学ぶ』事の本当の意味、その学んだ事をどう活かしてゆくのかという事、そして、人が生きるのに時間はいつだって足りなく、無限に見えて有限である事。

 その限られた命と時間の中で、どのように生きてゆくのか?その時、人を支えるのは、『学ぶ』という事と、その学んだものをどう咀嚼し、活かしてゆくのかという事。

 ジュイシェン(石渡弘徳さん)は、死の間際になって、オリガ先生(中川朝子さん)が自分に本当に教えたかった事、『学ぶ』事の本当の意味を知り、悔い、オリガ先生にその事を『後悔している』と伝えたのだろう。

 その『後悔している』の意味を、『学ぶ』事を知った事を後悔していると思い、教えた事を後悔しているオリガ先生を救ったのも、また、教える事であり、そのオリガ先生によって『学ぶ』事を知った事(木村美佐さん)であり、アルティナイもまた、『学ぶ』事によって、救われ、どんな境地に置かれても、どんな事が起こっても、誰にも奪う事の出来ない『学ぶ』事から得た『知識』であり、学び続ける限り、諦めず生きてゆけると信じる強さを身に付けた。

 知性も、教養も、知識も、『学ぶ』という意欲も、勉強して自分の実になったものは、誰も何者も奪えない。それこそが、『学ぶ』事の意味であると改めて感じた。

 去年の『木立によせて』より、更に、胸を抉り、切なく、悲しく、けれどアルティナイの最後の言葉と笑顔で、その中に微かな希望の光を見出し、涙が溢れて止まらず、嗚咽を漏らすほどボロボロに泣いた。

 石渡弘徳さんのジュイシェンは、子供時代はより子供らしく、生い立つに従っての成長が更に鮮明に、青年になり、兵士になってからは、より深く、より芯の強さと優しさが増していたように思った。いつも、観て思う事だけれど、石渡さんの声は言葉が胸の奥に届く良い声だと思う。

 木村美佐さんのアルティナイは前半は去年より以上に、健気で切なく可憐で、愛しくて抱き締めたくなる度合いが増し、後半では、『学び』によって揺るがない『知』を得た聡明さと優しさと強さが増していた。

 中川朝子さんのオリガ先生の苦悩と葛藤、絶望、そしてアルティナイによって、また、教え、共に『学ぶ』事を決意した最後に見せる清々しい強さに胸を打たれた。

 『学ぶ』という事の尊さと、その学んだ事の活かし方で『学び』も『知』も毒にもなるけれど、ちゃんと活かせば、誰にも奪われない財産になる。

 『木立によせて』を観ると、もっと学ばなきゃ、学びたいと思い、今在ることを当たり前と思わず、生きて学べる事に感謝を捧げたくなる。そして、演劇集団アクト青山の『楽屋』が重なる。時間は有限。だから、丁寧に真摯に学んで生きなければと思う。

 1年前のこの場所で観た『木立によせて』は、今まで観た芝居の中で、一番胸が苦しく切なく、そして魂震える程感動した。一年後、同じ場所で観た『木立によせて』は、初演を上回って、100分の内90分号泣しっぱなし、胸が苦しくて声を殺しても、堪らず何度か声が漏れた。駅に向う間も涙が止まらなかった。

 この舞台だけは、どんなに言葉を尽くしても語り切れない。だから、また、再演する事があったなら、ぜひ1人でも多くの人に観て欲しいと思わずには居られない素晴らしい舞台だった。

文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

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