2018.10.8 (月) PM14:00 アクト青山アトリエ
演劇集団アクト青山企画公演『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』の千穐楽の日、待ちに待っていたCチームを観る為に、千歳烏山にあるアクト青山のアトリエに足を運んだ。
この日は、企画公演『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』の千穐楽であり、Cチームの千穐楽の日でもあった。この日の昼の回と夜の回の2公演を以て、終わる『楽屋』。
アトリエに入ると、舞台の中央に背もたれのある一脚の椅子。その少し先に姿見があり、椅子の後ろの壁にピタリとつけられ、卓上の鏡が置かれた化粧机、その横に、タバコの缶や細々した物が置かれたカラーボックスがひとつあり、その上には、バッグとCDラジカセが置かれ、その壁と柱の間に渡したポールには、チェーホフの『かもめ』の舞台のポスターが貼られている。
椅子の前に置かれた姿見は、過去と現在、生と死、光と影、生きている者と死んでいる者の境界であり、それらを映し出すものであると同時に繋ぐもの、真ん中に置かれた椅子は、生きている者、死んでいる者が乗りそれぞれの時間を演じる舞台なのではないかと感じたのは穿ち過ぎだろうか。
そんな思いが頭を掠めながら、Cチームの『楽屋』を観た。
今回、Cチームの演出であり、女優Cを演じた小西優司さんにこの舞台が始まる前に、『楽屋』Cチームについて、演出家インタビューをさせて頂き、インタビュー記事とまとめ記事を書かせて頂き、そちらに感じた事思った事はほぼ書き尽くしてしまったような気もするので、ここでは、インタビュー記事やまとめ記事でも触れた男が女として女優を演じた『楽屋』Cチームになっていたかについて書こうと思う。
インタビューで、小西優司さんは、『男が、女装した女ではなく“女”を演じる事で、清水邦夫の視点からの女を描けるのではないかと思う。男が書いた女は男しか演じられない。男にしか出来ない女性を描きたい。』と言っていた。
その言葉の通り、この日観たのは、確かに『男が女装した女』ではなく、男が女として“女”であり、男である清水邦夫の視点から描いた女であり、男にしか出来ない女性が描かれていた。
よく、『女は女に対して厳しい目を向ける。だから、男が視えない女の本質を見抜く。』と言われる。確かに、女は女に対して残酷なまでに厳しく見て、その女の本質を見抜いてしまう。けれど、役者という男の目を通して視た場合、女自身にさえ見抜けない女の奥深くに眠る女の業の本質を見抜いてしまうのではないか。
しかも、対象の女は女優霊と女優。女以上に女としての業が深い女である。役者であり男である4人の男が女として“女”=“女優”を演じるのである。清水邦夫の男の視点から見た、女の可愛さ、残酷さ、業の深さ、女への憎しみも奥深くに押し隠したい醜さも、愛しさを描き出していた。
それが如実に現れているのは、小西優司さんの演じる女優C。女としての業、女優としての業、孤独、自分の中に渦巻く醜さも残酷差も見つめ受け入れてなお、女優であり続ける事、女優の業を自ら背負い、受けて立って生きて行こうとする覚悟とある種の潔さ、それが、女優Dに言い放ち、女優Dが出て行った後に激しく荒れ狂って放つ言葉よりも、その後に、静かに語りかけるように、低く呟くように放った声や言葉を通してより強く感じた。
小西優司さんの女優CとCチームの『楽屋』は、原作の40歳まさにそのまま、季節で言うと初秋。
夏の若さは無くなりつつあるけれど、完全に無くなった訳ではなく、傷ついてもすぐに立ち直れるほど若くはないが、悟り切るには老いてもいない、傷つくいたなら蓄積した知恵で立ち上がってしぶとく行き続けてやるという強さを身につけつつある初秋。
対して相楽信頼さんの女優Dは、女として、女優として夏の只中にいる女優Dの女の可愛さ若さゆえの残酷さとその残酷さを自覚せず、無邪気に発した言葉が女優Cの胸を抉り傷つける怖さを清水邦夫の男の視点で男が女として演じていて、どこからどう見ても女そのものだった。しかも、とっても可愛い女。だからこそ、女優Cに枕を突きつけ、ニーナの役を返してと詰め寄る所は、狂気を孕んだ怖さを感じた。
この女優CとDの関係は、高村賢さんの女優Aと佐古達哉さんの女優Bとの関係にも重なるがひとつ違うのは、女優Aは、女優Cより更に歳を重ねていているが故に、冷静に女優Bに対し、いつか女優Bも自分と同じ心の軌跡を辿る事、既に辿り始めている事を知って、時にBをからかっている事と、女優Bもまた、まだ自分を若いと思いつつも、Aの姿は遠くない将来自分が辿る道でもある事を薄々気づいていつつ、抗ってみせている気がした。
それが、女優霊になり自分たちの世界に入って来た女優Dにより、眠ったはずの眠らせたはずの女優の深い業を呼び覚まされ、抉られ、最初は排除しようとするが、どこか漫然として過ごしていた永遠の夜に新しい風が吹き込む事により、愉しみを見出し、それが仄かな一筋の希望の光になり受けいれてゆく。
そして、やはり思う。生きている時間は無限ではなく、有限だと。だからこそ、悔いを残す生き方をしている暇はないのだと。
思い半ば、生きたくても生きられなかった者の分も、そして何より自分の為、自分の限られた時間を悔いなく目一杯生きなくてはいけないのだと。
文:麻美 雪
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