2018.9.22㈯ PM13:00 小劇場てあとるらぽう
雨雲が低く垂れ篭めるた連休初日の昼下がり、西武池袋線東長崎駅から程近い小劇場てあとるらぽうに、高山タツヤさんが出演されていたミステリー専門劇団回路R『イリスの十字架』を観る為、私は居た。
階段を地下へと下り、劇場に入り最前列真ん中の席へと着く。正面に緋毛氈を敷いた2段ほどの階段を上がった先に1段高くなった舞台があり、紅い階段の左側には赤い小さな時計が置かれた黒い箱のようなテーブルと箱型の黒い二脚の椅子、右側の1段高くなった舞台の上の壁には紅い布が、まるで飛び散った血のように纏い付けられ、その前には黒い箱のようなものが置かれ、1段下がって人4人が横に並び立てる程の舞台があり、階段下のスペースも舞台となっているが、それは1段高くなった舞台と結界で隔てられた、この世と異界の境界のようにも見えた。
高山タツヤさんから、この舞台へのご案内を頂いた時、ホラーや怖い物が苦手な為、少し悩んだのだが、高山さんが出演されるし、怖いだけでなく、笑える所もあるということだったので、思い切って観ることにしたのだが、ホラーのおどろおどろしさはあまり感じず、笑える所が多かった。
が、それだけではなく、最初から気づかぬように伏線が随所に散りばめられ、張り巡らされ、結末に向けてそれらの伏線が回収されて行き、二転三転のどんでん返しの行き着く果てにある結末に至って、なるほどあれがあそこに繋がり、これが此処に繋がるのかと解る面白さがあった。
3箇所、気になるというか、あくまでも私個人の感想ではあるが、ここはちょっとと思った所があった。
始まって最初の30分ぐらい、『イリスの十字架』の世界の中に、中々入り込めなかった事と、ラスト近くのイリス教団に捕らわれ、閉じ込められた主人公と探偵たちが、イリス教団のによって火を放たれあわやというところで牛の大群が押し寄せて救われるというのは、ちょっと苦しいかなと思った。
頭の中には、大群で押し寄せて分厚い鉄の扉を押し倒した牛たちの中に、火が放たれている訳なので、丸焼きになった牛の図が浮かんでしまった。
劇中、主人公の女優が幼い頃母に虐待を受けている事を匂わせる映像が挟まれるのだが、それが、最後の大どんでん返しでは、主人公の女優のマネージャーの母から虐待された記憶と交錯して、それは、マネージャーの記憶だったという風に取れる造りになっているのが、何となくあれっ?と思って気になった。
あくまで私個人が感じた違和感であるので、観る人によって、そこも含めて面白かったという人もいると思うので、私が感じた感想としてということではある。
それを差し引いて観ても、テーマが「虐待」と「信仰」という、毎日のように報道される事がテーマになっていて、それをシリアスだけでなく、伏線と気づかせない伏線を舞台全体に散りばめて、収束に向かうに従って、回収し、それと分かった時の面白さを持った舞台だと思った。
映画監督と揉め、撮影現場を飛び出し行方不明になったいた主演女優高木涼子(末広 響子さん)が、ナタで殴り殺されるという惨殺死体で見つかり、涼子の代わりに主演を務める事になった女優杉井毬乃(かみあり つきさん)に、涼子に取り憑く。
毬乃にだけ視える涼子の亡霊、主演へのプレッシャー、涼子の亡霊、フラッシュバックする母に虐待された幼い日の記憶から夢遊病になり、辛い幼少時代を支えてくれた姉と慕う存在が階段から落ちるという事故でなくしたその原因は自分だと責め続け心が追い詰められる毬乃の周りで、次々と映画の出演者が殺それて行く、謎の殺人鬼、魔女の伝説、幾重にも重なり合う因縁と業、「虐待」と「信仰」をテーマに描いた『イリスの十字架』。
その中で、出演者の女優たち全てと関係を持つという斎藤龍平役の高山タツヤさんと、終演後お話した時に、役が役なだけに、あの男最低と言われ、好感度が著しく下がったと仰っていたのですが、それは、あまりにも高山タツヤさんが、斎藤龍平という男そのものがそこにいるように佇んでらしたからだと思う。
私が観る限り、確かに男としては最低なのだが、女達がこぞって惹き付けられる男であるということは、どこか憎めない可愛げのようなもの魅力があるからで、その雰囲気を高山タツヤさんの斎藤龍平から感じた。
『虐待』と『信仰』。難しくもデリケートな問題を扱った舞台であり、そうと気づかせない伏線を随所に散りばめ、張り巡らされたこの舞台を、1度観ただけで全てを理解するのは難しい。故に、どう書こうか今回はかなり悩んだ。
それでも、敢えて感想を書くとするなら、一見コメディに見えるシーンを散りばめながら、虐待によるトラウマ、信仰宗教に心酔して狂って行く人々の背負ったものの後ろにある悲しみと苦しみ、信仰とは何か、信じるとは?生きるとは何なのか、様々な問題がさり気なく盛り込まれている舞台であり、中盤からグッと引き込まれた舞台であったということである。
文:麻美 雪
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