劇団現代古典主義:『アントニーとシャイロック』

 2018.9.15㈯ PM14:30 コフレリオ新宿シアター。
 夏の暑さが影を潜め、心地好い涼しさと篠突く雨が降る東新宿の駅から、3分程歩いたコフレリオ新宿センターで、劇団現代古典主義『アントーニオとシャイロック』を観た。


 劇団現代古典主義の土肥亜由美さんから、ご案内を頂き、第30回池袋演劇祭参加作品として、『アントニーとシャイロック』と『亭主学校~ルイ14世に捧ぐ~』の2作品で参加されると聞き、お昼はこの『アントニーとシャイロック』、夜は亭主学校~ルイ14世に捧ぐ~』をこの日観た。

 土肥亜由美さんとは、芸術集団れんこんきすたの観劇を通して知り合い、以前から私のTwitterをフォローして頂いていたり、私のブログを読んで下さっていて、今年の春の芸術集団れんこんきすた『リチャード三世』終演後の乃々雅ゆうさん主催のお茶会で初めて、お会いしてお話したのが、きっかけで以前から気になっていた劇団現代古典主義の舞台を拝見する事になった。

 この『アントニーとシャイロック』は、シェークスピアの『ベニスの商人』を基にして、劇団現代古典主義ならではの味付けを施した、劇団現代古典主義でしか観られない『アントニーとシャイロック』という作品に仕上がっている。

 劇団現代古典主義は、商標登録に認可されたステージを複数に分割して、物語を同時に進行させる“同時進響(しんこう)劇”という独自のスタイルの舞台づくりをしている劇団。

【あらすじ】

 1596年のイタリア、ヴェニスの商人アントーニオは腹違いの弟バッサーニオに懇願され、弟の結婚の為に必要な資金を調達する為に苦渋の決断の末、敵視し手厳しく批判してきたユダヤ人の高利貸しシャイロックに莫大な借金をする。

 自分を侮蔑するアントーニオに遺恨を持っていたシャイロックは、アントーニオに「返済不可能の場合は身体から肉1ポンドを切り取り、それを担保とする」という条件を突きつけ、金を貸す。金の貸し借りをきっかけに、2人の人生は狂い始め、アントーニオの商船は沈み、借金の返済が不可能になったアントーニオに下される判決とは…。

 劇場に入り、最前列真ん中の席を選び座ると、舞台の左右、正面に1段高くした人が2人も並び立てばいっぱいになってしまう程の舞台があり、その前は空いているとは言え、左右に小上がりのような舞台がある為、人が3、4人並び立てるかどうかの空間しかない造りになっており、左の舞台には一脚の椅子、右の舞台には机と椅子一脚があるのみ、真ん中の小上がりの舞台には当初は何も無いが、物語の進行とともにテーブルが置かれたり、様々に表情を変える造りになっている。これが、同時進響劇の所以。

 アントニーとシャイロックは、鏡合わせ、光と影、善と悪表と裏の存在なんだと観ながら感じていた。それは、一人の人間の中にある2面性でもある。善と悪、光と影、月と太陽、明と暗は鏡合わせで背中合わせの表裏一体の存在であり、関係なのだと感じた。
 近親憎悪にも似た、互いが互いの目を逸らしたい部分や経験が重なるからこそ、互いに憎み合い、互いを滅ぼすかのように対峙する。互いの存在が自分にとってのもう一人の自分。

 シェークスピアの作品を読むと、ユダヤ人=悪者のように書かれているものが、多いのはなぜなのだろうかと、中学の文学の授業で、『ベニスの商人』を読み解いていた時からずっと心に引っかかっていた。

 歴史的にみると、ユダヤ人は弾圧され、理不尽な目に多くあって来た(アウシュヴィッツやユダヤ人迫害) なのに、『ベニスの商人』などシェークスピアの作品では、ユダヤ人は悪者として描かれる。それを、シェークスピアの差別意識としてだからシェークスピアを嫌いだと言う人もいる。

 その疑問の答えの一端を、『アントニーとシャイロック』を観て見つけたような、アントーニオがシャイロックを嫌うのは目を逸らしたい、認めたくない人の醜さを持ったもう一人の自分をそこに観ていたからではないのか、そしてまた、同じ事がシャイロックにも言えるのではなかろうか。

 シャイロックの中の脆い自分、何処か今の自分に後ろめたさがあり、自らの奥底に僅かにでも本当は人に優しくありたい、高らかに清廉潔白を叫んでみたくもあったのではないか、その願望共々アントーニオの中に見て、憎んだのではないか。

 シャイロックの中の脆い自分、何処か今の自分に後ろめたさがあり、自らの奥底に僅かにでも本当は人に優しくありたい、高らかに清廉潔白を叫んでみたくもあったのではないか、その願望共々アントーニオの中に見て、憎んだのではないか。
 そう思った時、長年抱いていた疑問が何となく腑に落ちた。ユダヤ人を悪だという人間の中にそこ、醜さや悪が巣食っているのだとシェークスピアがシャイロックを描く事で皮肉ったのでなはいかと言うのは、穿ち過ぎた見方だろうか。
 最後には、バッサーニオの婚約者ポーシャによって、バッサーニオの仕組んだ一部始終が判り、大団円を迎えたかに見えるその結末に突きつけた問は、白日の元に晒された己の保身、権力への欲望、綺麗事を言い続けていた自分の持っていた醜さに、アントーニオはどう向き合うのか、シャイロック自分の冷血な強欲と人への不信感と憎悪が、最愛の娘ジェシカを自害へと追い詰めた事への悔恨とどう向き合い、これからどう生きてゆくのかという事にどう対峙して行くのか、そして、観客である私達にもその問は鋭い刃を向けて突きつけられる。
 樽谷佳典さんのシャイロックには、父としての娘への溺愛と過酷な生い立ちが、捻じ曲げてしまった人の脆さと憎しみと絶望と悲しみと痛ましい寂しさを感じた。
 
 様々な問いかけを自らに課しながら観た、あっという間なのにとても濃い70分間の素晴らしい舞台だつた。

文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

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