2018.9.8㈯ PM:18:00 千歳烏山 アクト青山アトリエ。
昼間、小西優司さんのインタビューを終え、夜、ベニバラ兎団の飯田南織(なおり)さんと演劇集団アクト青山主宰の小西優司さんのユニットOrtensia(オルテンシア)の第三回公演『我が子、ハムレット』を観に千歳烏山の演劇集団アクト青山アトリエに足を運んだ。
アトリエに入り、席に着くき正面を見ると、茶色のソファーとその前には、漫画数冊が無造作に置かれたローテーブル、左手には机と椅子、本棚が並び、右手には畳まれたままのシャツやくしゃくしゃと丸めた服が乗ったローチェスト、机とローチェストの中間には上着やシャツやカバン等が掛けられた背の低いハンガーラックが置かれている、若い男の部屋の中が広がっている。
そう、この部屋は、『我が子、ハムレット』の主人公息子恭一郎(飯田南織さん)の部屋。この部屋で、繰り広げられる息子恭一郎と母加代子(小西優司さん)の『我が子、ハムレット』の世界から、やがてシェークスピアの『ハムレット』へと移ろっては、現実の恭一郎、加代子の世界へと戻り、また『ハムレット』、合間合間に『マクベス』『ロミオとジュリエット』『リア王』とシェークスピアの世界への移ろいを繰り返す、母と息子の『ハムレット』が幕を開ける。
【あらすじ】
初秋のある日、母加代子(小西優司さん)は、息子恭一郎の部屋を掃除していて、机の上に置かれた一冊の台本を見つける。台本のタイトルは『ハムレット』。あの有名なウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇として名高い『ハムレット』である。
台本を読み耽る母。そこへ息子恭一郎(飯田南織さん)が帰宅し、話を聞くと新入社員歓迎会を兼ねた社員旅行の余興で、恭一郎がハムレットを演じる事になったという。
そう聞くや、母加代子は恭一郎に『ハムレットをやってみなさい』と促す。そんな母を目の前に、息子は恐る恐るハムレットの台詞を言い始めるのだが、やがてそれは『ハムレット』とシェークスピアの世界と加代子たちの現実の世界が重なり合い、行きつ戻りすを繰り返し、最後に見えてきたものとは…。
1時間である。たった1時間なのに、2時間の濃い芝居を観たような酩酊感とあっという間に時が経ってしまった集中力と心地好いほろ酔い気分、コメディーなのに『ハムレット』、『ハムレット』なのに『リア王』『ロミオとジュリエット』『マクベス』…シェークスピアの世界を堪能したかと思えば、『ガ○スの仮面』の月○先生が出て来たり、それでもやはり、シェークスピアで『ハムレット』で、最後はちゃんと『我が子、ハムレット』へと結実して行く、贅沢さと凄さ。は、息子恭一郎の部屋を掃除していて、机の上に置かれた一冊の台本を見つける。台本のタイトルは『ハムレット』。あの有名なウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇として名高い『ハムレット』である。
1時間である。たった1時間なのに、2時間の濃い芝居を観たような酩酊感とあっという間に時が経ってしまった集中力と心地好いほろ酔い気分、コメディーなのに『ハムレット』、『ハムレット』なのに『リア王』『ロミオとジュリエット』『マクベス』…シェークスピアの世界を堪能したかと思えば、『ガ○スの仮面』の月○先生が出て来たり、それでもやはり、シェークスピアで『ハムレット』で、最後はちゃんと『我が子、ハムレット』へと結実して行く、贅沢さと凄さ。
観終わった後に残るのは、子にとって母とは何だろう?母にとって子とは何だろう?という永遠の問いかけと、最後に母加代子が恭一郎に言ったことは全部嘘という言葉も嘘であり、息子恭一郎が『ハムレット』は、社員旅行の余興でだと言った事また嘘であり、その嘘は母は子を想い、息子は己の行く末を定める決意とその決意を母に告げるべき時期を迷い、自分がこれから全てを芝居に賭ける事への迷いが、母加代子によって吹っ切れ、決意へと変わりつつある心から出た嘘。
小西優司さんの母加代子が、飯田南織さんの息子恭一郎に何をしたかと言えば、元女優の本領を発揮し、何故か某演劇少女漫画の『月○先生』に限りなく似た衣装に身を包み、『ハムレット』から、『ロミオとジュリエット』『マクベス』『リア王』の台詞をまるで、シェークスピアの舞台を目の前で観ているような迫力で朗々滔々と言ってみせ、恭一郎の中に『ハムレット』の心情が流れ込み、恭一郎がハムレットになって行くように導く事。
小西さんのシェークスピアの台詞はいつ聴いても、軆が震えるほど凄い。ジュリエットとの愛しか見えない若く一途で少し愚かで、純粋なロミオは、少年の面影をまだ少し引きずった溌剌と若い甘やかな声、ハムレットは、苦悩と疑心と母への愛憎入り交じる青年の憂いを呑んだ響きを持った低い声、マクベス夫人は己の罪過と擦っても洗っても消えぬ血に戦きながらも気丈に、冷酷に自らを保とうとする女の罪と業と欲に取り殺されそうな深い不安と戦きを持った声、リア王は、俯いた母の指先がピクリとゆっくり動き始めた瞬間、加代子の、小西さんの中にリア王が入ったのを感じた。
顔を上げた時その目は、その顔は、娘の愛の真実を見抜けず、姉娘2人に裏切られ、真に父を思うコーデリアの真心に気づいた自分の愚かさを恥じ、自分を責め苛む曇っためが清けくなると同時に、自分のした仕打ちに微かな狂気をも心に纏ってしまった嗄れひび割れ、悔恨と懺悔の入り交じった苦悶する声と姿はリア王そのものだった。
母からハムレット、ロミオ、マクベス夫人、リア王と変化し、また、母加代子に戻る小西さんの違和感のない人物への移行は、一人一人がその人物そのままだからなのだと思う。
小西さんの母加代子を見ながら、『楽屋』のインタビューの時に言っていた、『男が女装した女ではなく、女を演じる』と言っていたのは、こういう事かと解った。それは、目の前に母そのもの、女そのものが居たから。小さく呟く言葉は母や女が言うことそのままだし、何気ない仕草や立ち居振る舞い、所作が母であり、おんなそのものだった。
個人的には、掃除機を掛けていて、コードの限界を超えた位置に進もうとして、コードがソケットから抜けたのを、差し直して、コードが抜けないようにそーっとコードを引いて掃除機を引き寄せてまた、かけ始める所は、私の母もしたし、女性なら大概同じような事をけいけんしているので、共感とともに笑いが込み上げて、ツボに嵌る。
あとは、某月○先生の黒いロングワンピースのチェーンベルトに下がった飾りを、恭一郎がハムレットの台詞を言うたびに、『こっちなのかしら、こっちだからいけないのかしら、やっぱりこっち?』と小声で言いながら左右に動かす仕草が好きで、くすくす笑っていた。
笑いながらも、母としての息子への想いも感じて、要所要所でしみじみとした。
飯田南織さんの息子恭一郎は、出て来た時から、若く今風の男前の青年そのものだった。繊細さと若さゆえの弱さと芝居に対する身の内に沸々と熱を持ち始めた情熱と、その年齢の青年としては普通の自分がいない時に部屋に入って掃除をする母を鬱陶しく思う子供の我儘さが、声や言葉、動きや仕草、所作の端々から滲み出ていた。
座り方ひとつ、特に、髪を何気なく掻く仕草は、男そのものの仕草。男の人ってこんな仕草、こんな表情、こんな言い方するよねと、うっかり、昔付き合った人の事やら、うちの兄やらを思い出した。
最初は下手だった恭一郎のハムレットが、母のさり気ない?助言や、目の前で見事なハムレットを演じる姿を目の当たりにする事で、理解し、掴み取り、雲泥の差を感じる程に上手くなって行くその過程、その表現の仕方がとても自然でいながら見事で、惹き込まれた。
『ハムレット』=芝居というひとつの共通項が、いつしか母と息子を、幼かった時のように強く、けれど、程よい距離を持って結び付けられたように感じた。それは、芝居を通して息子が母を尊敬したからかも知れない。
母加代子と息子恭一郎が、『ハムレット』の母とハムレットに重なり合う時、見えてきたものに思い至る時、この舞台のタイトルが、『我が子、ハムレット』である事の意味に気づく。
恭一郎に言ったことは全て嘘と言った、母加代子の嘘と社員旅行の余興でやると言った息子恭一郎の嘘、お互いがお互いの嘘に気づきながら、相手にそれを気づかれていることを知らない母と息子は、これこらも、変わらない日々を送るのかもしれない。否、『ハムレット』、芝居を通して何処か互いに認め合う、温かな情が彩を濃くしたかも知れない。
恭一郎が母に吐いた嘘は、恭一郎なりの母を想う嘘であり、全て嘘と母が恭一郎に吐いた嘘もまた、恭一郎に余計な負担を強いない為の息子を想っての嘘なのだろうと思う時、胸にじわりと沁みる感慨と切なさを伴った感情、可笑しさ、楽しさ、面白さが入り交じり、また凄いものを観てしまったなというため息と、シェークスピアを存分に堪能出来た満足感と贅沢さ、『我が子、ハムレット』というひとつの世界になっている事、そして、『我が子、ハムレット』好きだなぁ、再演して欲しいと切に思う舞台だった。
文:麻美 雪
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