お風呂にとぷんと浸かっていた時、ふと、演劇集団アクト青山、テアスタ(夏)『輸血』の事が頭を過り、血の繋がりだけが、家族だろうか?そう思った時、はたと思いついた事があった。
この『輸血』は、ちらりと調べたところ戦後に書かれた戯曲である事から、戦争の尻尾がこの作品に投影されているとするなら、何故か居る小西優司さんの飛行士は、戦闘機の飛行士でもあったのではないか、飛行士が自分が操縦した飛行機はよく墜落したというのは、その事も踏まえての事だったのではないかということもあるのではないかということと、血の繋がりがだけが家族なのかという事へ思いが飛んだ。
子どもとはぐれる、若しくは子どもの身の安全等を思い子どもを中国人に託し、残して来た残留孤児と育ての親との間において、水よりも濃い親子関係を築き、真の家族と変わらぬ絆が生まれはしなかったか、生まれたとすれば、それは血が繋がったとであり、家族になったということではないのか。
中国に残された孤児たちだけでなく、日本でも、戦争孤児を自分の子として迎え、育み、慈しみ、親子の情を交わした親子もあったろうし、現在では尚のこと、様々な命、子どもの授かり方の選択肢も増えて来た事を考え合わせると、血の繋がりだけが家族であり、家族の絆が結ばれ、派生するとばかりは言えないのではないか。
血が繋がっていなくても、共に生きた時間や芽生え育まれ感情や思いとそこに親子、兄弟姉妹、夫婦などの関係が生まれ、情が生まれ、育まれて行った場合、そこに家族としての絆が生まれ、血が繋がり、混ざり家族になり得るのではないだろうか?
血の繋がり=家族なのか?そうとばかりも限らないのではないかと、思いついた事を此処に追記しておく。
千穐楽が過ぎても、ふと、反芻し、考えを巡らせてしまう、やはり、クセになる舞台である。
文:麻美 雪
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