2018.4.27(金) PM18:30 渋谷Bunkamura シアターコクーン。
久しぶりのシアターコクーン。1階席の真中列のほぼ真中の席へと着く。
大きな本を真ん中から開いたような舞台、正面には大きな鏡、その前には、真紅のソファーが二脚横一列に並び、窓の上には厳しい顔をした年古りた男の肖像画が掛かっている。
一人の女の姿が鏡の中に浮かび上がり、こちらに向かって歩いて来る。まるで、鏡の中から抜け出てこようとするかのように。マーラーのような音楽が流れていたのが止み、暗転となり鏡の中の女の姿は消え、『ヘッダ・ガブラー』の幕が上がった。
『ヘッダ・ガブラー』は、1890年に劇作家イプセンによって書かれた全四幕の戯曲。
この舞台は、高名なガブラー将軍のひとり娘で、美しく勝気で気位が高く社交界の中心に君臨し、男達から常にチヤホヤされ崇められる魅力的な女性だった主人公ヘッダ(寺島しのぶ)が、頼りにしていた父が亡くなり、周りの男たちの中から、将来を嘱望されている文化史専攻の学者イェルゲン・テスマン(小日向文世)を選び、世の女性たち同じように結婚し、半年間の新婚旅行を終え、新居に帰って来た翌朝から幕をあける。
新居では、半年の新婚旅行の間に新居を整えてくれた、イェルゲンの叔母ミス・テスマン(佐藤直子)とメイドの叔母とは対照的にヘッダに好意をもっていないベルテ(福井裕子)が、二人を待っていた。
叔母たちに思いやりを示すイェルゲンに対し、新妻ヘッダは、自分が強く望んで購入させたにも関わらず、新居への不満を並べ、叔母を見下し、既にこの結婚に退屈している様子を隠そうともしない。
そんな折、昔からの知り合いであるエルヴステード夫人(水野美紀)が訪ねて来る。
今は田舎の名士の後妻となった彼女だが、義理の子供たちの家庭教師だったエイレルト・レェーヴボルク(池田成志)を探しに街にやって来たのだという。
レェーヴボルクとは、イェルゲンのライバルであった研究者で、一時期、自堕落な生活で再起不能と言われたが、田舎町で再起。最近出版した論文が大きな評判をとっている男であり、ヘッダのかつての恋人出会ったがレェーヴボルクのヘッダへの執着がエスカレートし、ゴシップのネタにされることを恐れたヘッダが、拳銃で彼を脅して一方的に関係を断ち切ったという過去があった。
ヘッダとの関係を知らないエルヴステード夫人は、彼を再起させるために論文執筆にも協力したことを語り、都会に戻った彼が、また昔の自堕落な暮らしに戻ることを恐れ、もう夫の元には戻らない覚悟を決めて追いかけて来たという。
ライバルでありながら、互いの才能を高く評価し合い、レェーヴボルクの再起を喜ぶ夫イェルゲンと、二人の純粋な思いを前に、苛立ちを覚えるヘッダ。
そこに、夫婦が懇意にしていて、かねてよりヘッダに思いを寄せ言い寄っていたブラック判事(段田安則)が訪ねて来て、判事から、イェルゲンが有力と言われていた大学教授の候補に、レェーヴボルクも復活してきたことを聞かされヘッダの心中は大きくざわつき始める。
ブラック判事と二人になったヘッダは、いかにこの結婚や毎日の暮らしが退屈か、このまま子供を生んで平凡な母親になることだけは嫌だと激白すると、ヘッダに気があるブラックは、このまま見せかけの結婚生活を送りながら、気ままに浮気を楽しめばいいと、それとなく誘うが、そんな自分にはなりたくないと断るヘッダ。
やがて、レェーヴボルクが現われ、久々に対面し、まだ互いに惹かれ合っていることを感じ合う二人だったが、エルヴステード夫人とそこで会えたことを素直に喜ぶレェーヴボルクの姿を見て嫉妬したヘッダは、まだ自分に彼を操る力があるかを試すために、酒の席を避けて更正していた彼を言葉巧みに、ブラック判事主催のパーティへと送り出す。
案の定、酒の力で自分を見失ったレェーヴボルクは、あろうことか、大事に持ち歩いていた次回出版予定の原稿を紛失してしまう。原稿は、たまたまイェルゲンが拾い、ヘッダに託したのだが、ヘッダはそれを戸棚に隠した所に落ち込んだレェーヴボルクが憔悴しきった姿で現われるが、ヘッダは、隠した原稿を出そうともしない。
そして、レェーヴボルクに自分が大切にしていた父の形見のピストルを手渡し、ある言葉を彼に囁いて帰し、原稿を焼き捨て、やがて彼の死が伝えられると、彼女もピストル自殺をする所で幕切れとなる。
イプセンの描いた美貌と才気に恵まれながら、我(が)の強い解放された女性の、自他をともに破滅させる姿を描いた作者中期の名作を、ともすると、魔性の女、身勝手な悪女としてのみ描かれそうなヘッダの軆の奥に抱えた悲しみ、孤独、戦き、嫉妬を抉り出し、深く濃密に描き出した舞台になっていた。
寺島しのぶのヘッダは、『悲しい女』として私の目には写った。
レェーヴボルクと恋愛をしていた時よりは、時間を経て、少しずつ若さを削がれ、今はまだブラック判事を惑わせる美貌と魅力を持っているが、その美貌も魅力もくすんでしまう時が来る事であろう事、そうなった時の惨めな自分の姿を見る思い描いては、内心怯え、レェーヴボルク亡き後、研究の虫で、人の良い夫イェルゲン(小日向文世)が、エルヴステード夫人が書き留めていたメモを基に二人してレェーヴボルクの原稿を再現しようとし始めた時、自分と研究のみしか目に写っていなかった夫が、知性と教養を共有出来る相手、エルヴステード夫人にいつか夫が惹かれ、自分は二人の間に入り込む余地が無くなるであろうことを予感したヘッダの悲しみと脆さ、孤独が、ヘッダを自殺へと向かわせたのではないだろうか。
失うかも知れないと予感した時、ヘッダは初めて夫イェルゲンに愛を感じ始めたのではないだろうか。
ヘッダは、自分は嫌な思いも苦労も悲しい思いもしたくはないが、自分の一言や行動で人の人生がぐちゃぐちゃになるのを見て楽しむことでしか思いを発散できない悲しい女という最初の印象から、美貌と才気に恵まれながらも現実への不満や不安を抱え、社会に抗い続ける将軍しかなかったの娘ヘッダの孤独と悲しみ、発露のない不安、自分でも気づかずにいた潜在意識下でその事に倦み疲れ、それらを払拭する愛を求めていてのではなかったろうか。
嬉々として、エルヴステード夫人と論文について語り合う夫イェルゲンの姿を見た時、冴えないと思っていた夫の自分に向けてくれていた愛が実は自分がずっと求めていたものであった事に気づき、その時やっと、夫に愛の萌芽を抱いたのではなかっただろうか。
しかし、その時には、既に遅く、自分は理解し得なかった、“知”で結びついたイェルゲンとエルヴステード夫人が、そう遠くない未来に男と女として惹かれ合い、それがやがて愛に変わり行くであろう事に気づき、此処にもまた自分の居場所が無くなること、何よりも愛されなくなる事に耐えられなかったと同時に、自分が唯一夫イェルゲンに与える愛と優しさは、自分が夫の人生から立ち去り、自由を与えること、いつか結び合うであろう二人の愛を邪魔しないこと。
それが、ピストルで自らの生命を終わらせる事だったのではないかと思った時、この物語で一番悲しいのは、ヘッダ・ガブラーだったのではなかったかと思った時、冒頭の鏡の中の女は、ヘッダの行く末を暗示していたのではないだろうかと思った。鏡の中の女は脆くて悲しい本当のヘッダの姿ではと気づいた時、どうにも胸が引き絞られるように痛くて、切なくてならなかった。
文:麻美 雪
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