芸術集団れんこんきすたvol.28:『リチャードⅢ世』②

 マーガレットの息子エドワード王太子の妻であり、幼馴染のリチャードによって夫エドワード王太子殺害され、のちにリチャードの甘言と奸計により、リチャードの妻となり、やがてリチャードの手にかかり命を落とす木村美佐さんのアン・ネヴィルは、儚くか弱く運命に翻弄されているように見えながら、芯に凛々しさを持った気高さと、夫を殺され、幼い頃のリチャードの優しい面影を覚えていた為に、リチャードの言葉を信じ裏切られ、殺された悔しさと憎悪からリチャードを呪う。マーガレットのマグマのような怨みではなく、藍(あお)い沼の水が冷たく沸き滾るような憎しみを感じた。

 中村ナツ子さんの王子エドワードは、聡明で凛々しく、美しく、勇気ある王子の中の王子。エドワード四世の息子であり、王位継承者である王子エドワードは、その冷静に物事を見つめ、見透す聡明さがリチャードにとって脅威になる事が故に、ロンドン塔に幽閉され、リチャードの名により、絞め殺されるという王位を継ぐ者として臍を噛むような悔しくも名誉を傷つけられるような殺され方をする。唯一、殺される時に冷静で取り乱さず、決闘によって死んで行くことを望みながら、子供であるという理由で、それさえも許されず首を閉められて殺害事件される事に恥辱を感じながらも、冷静にリチャードを怨みを発する少年とは思えぬ強さを感じた。

 熊坂理恵子さんのエドワード、クラレンス、リチャードの母ヨーク公夫人。立ち居振る舞い、仕草、声、話し方全てに品の良い美しさがあり、リチャード以外の者には、慈愛と穏やかさを見せるが、生まれ落ちたその瞬間からリチャードが醜い姿であったというだけで、彼を疎み、退け、憎み続ける。それが、リチャードを残虐非道な人間へとならしめたのではなかったろうか。もしも、母の愛を受けて育ったなら、リチャードには違う人生が待っていたのではなかった。

 ヨーク公夫人が、リチャードを疎んじたのは、彼が生まれつき醜い姿であったからだけが、理由だったのだろうか。リチャードは、本当に夫ヨーク公との間の子供だったのだろうか?もしや、夫が戦場にいる間に過ちなり何なりで出来た不義の子であったなら、自分の中の醜さ、汚さをリチャードに見ていたとしたら、ヨーク公夫人がリチャードに辛く当たり、愛せなかったのも腑に落ちる。感情を露わにし、リチャードに憎しみと怨みの言葉の礫を投げつけるヨーク公夫人の表情と声色にそんな思いが過ぎった。

 佐瀬恵子さんのエドワード四世の娘王女エリザベスは、怨みと憎悪を持つ人々の中で、唯一、リチャードが、陰謀術数で人々の心を操る、残虐非道な国王ではなく、心根の優しい本当のリチャードであり、歪められたリチャード三世像が流布さ続け、弾劾される事に心を痛め、叔父リチャードを慕い、リチャードの死に涙し悼む優しく温かい心を持った聡明な女性。
 
 自分だけがリチャードの真の姿を知っているというのも、歪められた姿のまま殺され、死んだ後もなお弾劾され、誤った姿を流布される事が悔しくないのかという王女エリザベスもまた、傲慢であるとマントの男に言われ、自分の中に、リチャードを怨み憎悪する者たちの心の中にある、醜さが一欠片もなかったとは言えない事に気づき、受け入れる聡明さと強さを持った王女エリザベスは唯一の救いでもあった。

 高森勇介さんのイーリー司教は、リチャードが残虐非道の悪の策士であるなら、善の策士である。リチャードに最後の審判が降るまでは、その骸に何度でもリチャードの魂を下ろし、弾劾し、殺す事が出来ると教えたのは、イーリー司教。聖職者=善人という短絡的なイメージではない。リチャードの残虐非道に対する憤りやリチャードによって奪われた命に対する憐れみだけではなく、イーリー司教の中にもリチャードに対する深い憎しみがあり、聖人と言われる者であっても、そういう醜さをうちにもっている事を感じた。

 濱野和貴さんのリチャード三世は、短躯で美しくない自分の容貌への激しいコンプレックスが故に、自分は愛されないという絶望的な自己否定と諦めそこから産みだされた歪んだ孤独が、リチャードⅢ世を稀代の悪役たらしめたのではないかとは、3年前の初演時の観劇ブログにも書いたことだが、今回は、それに加えて、愛への渇望を感じた。

 リチャードは、母ヨーク公夫人に、兄たちと同じように愛して欲しかっただけなのではないのか。生まれ落ちた瞬間から醜いと言うだけで疎まれ、退けられ、辛く当たられ、母親から一欠片の愛情も与えられなかったら、人を愛する事は出来ない。何故なら、愛を与えられずに育った者は、愛し方を知らないから、だから愛せない。もしかしたら、戦いによって命を落とすその瞬間まで、心の深い沼底で母の愛を求め続けていたのかも知れない。

 誰からも愛されないなら、徹底的な悪役になってやるそんな、リチャードⅢ世の救いようのない孤独と絶望がリチャードをリチャード三世にし、リチャードⅢ世もまた、歴史の犠牲者のように思えてならない。前回も感じ、今回観て更に強く感じたのは、本当のリチャードは、もっと聡明で静かで優しいひとだったのではなかったのかということ。それは、アンの幼い頃のリチャードを語る言葉に現れているし、だからこそ、夫を殺した憎むべき相手のリチャードに、幼い頃のリチャードの記憶があるからこそ、リチャードの甘言を信じ妻になってしまったのではないか。

 最後に、中川朝子さんのマントの男。これこそが、実像のリチャード三世。初演時、マントの男は、リチャードⅢ世の心の声なのか、影なのか、それとも実は、本当のリチャードⅢ世なのか、目立たないという、 確かな存在感を持って存在と感じたが、今回は、もっと濃く強い存在感を持って佇んでいた。

 2012年に、見つかったリチャード三世の遺骨をDNA鑑定した所、発見された遺骨は99.999%の確率でリチャード三世本人のものであり、96%の確率で青い瞳を持ち、年と共に暗くなった可能性はあるが、77%の確率で、金髪であり、歪んでいたとされる背骨も確かに歪んではいたが、鎧で目立たなくなる程度の歪みであると発表された。

 復元された顔を見ると、醜いと言うよりはどたらかと言えば整っている顔立ちで、目や表情からは知的な穏やかささえ感じる。

 その事も踏まえた上で、芸術集団れんこんきすたの『リチャードⅢ世』には、このマントの男が登場する。
 
 濱野和貴さんの『リチャードⅢ世』が、時の為政者やシェークスピアによって描かれ、流布され、拡散され世間によく知られたリチャード三世、中川朝子さんのマントの男は、リチャードの心の声であり、影であり、そして、リチャード三世の遺骨のDNA鑑定から導き出された実像に近いリチャード三世を表した存在。

 歴史は、その時の為政者、権力者、統治者、勝者にによって、都合の良いように書き換えられ、歪められる事があるというのは、よく言われる事である。

 そしてまた、リチャード三世も実像を歪められ流布され続けた一人と言えるのではないだろうか。

 調べてみると、アン・ネヴィルとの結婚にしても、確かにアンの地位と財産も魅力ではあったが、アンにはリチャード三世が、リチャード三世にはアンが初恋の人であり、互いに愛情があっての結婚であり、仲睦まじく、リチャードもよく出来た領主であったという話もあった。

 中川朝子さんのマントの男は、王女エリザベスを『時の娘』(リチャード三世は、本当に残虐非道の国王だったのかという視点に立って描いたジョセフィン・テイの『時の娘』というミステリーのタイトル)と呼び、語った言葉に描いた、本当のリチャード三世を現す存在であり、温かい心と知性と聡明さを持ちながら、自分を弾劾し、実像を歪めた者たちが心の底に持つ醜さ、傲慢さ、欲、憎しみ、悲しみ、絶望、全ての悪心の種を持つ事をも知る故に、自分を弾劾する者を弾劾し、歪められた実像を正すことを敢えてしようとしないリチャード三世の眼差しが、どんな言葉より深く胸を刺した。

 初演から3年の時を経て、更に深く濃く、熟成され、自分の中の奥深くに埋まっている醜さの種を抉られ目の前に突き付けられるような、胸に鋭く突き刺さる『リチャードⅢ世』になっていた。

 息を潜め、息を殺し、2時間40分という時間さえ感じずに魅入った舞台だった。

文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

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