芸術集団れんこんきすたvol.27:『木立によせて』~第一部『ポプラの淡き翼』~

 『鬼啖』『かつて、女神だった私へ』につづく、芸術集団れんこんきすたの二人芝居の集大成でもある『木立によせて』の幕が上がると、目の前に一本のポプラの木の下に、一脚のベンチが置かれた舞台が現れる。

 『木立によせて』は、キルギスの作家チンギス・アイトマートフの『最初の教師』を下敷にして書かれた第一部『ポプラの淡き翼』と第二部『白樺のいたむ瞳』の二部構成の芝居。

 『最初の教師』を下敷に書かれてはいるが、キルギスの小さな村という設定とジュイシェンとアルティナイという名前、教えるという事、学ぶという事についての大切さと意味を描くという点はチンギス・アイトマートフの『最初の教師』の要素が入っている以外は、奥村千里さん、そして芸術集団れんこんきすた独自のものになっている。

 『ポプらの淡き翼』は、当時のロシアからキルギスの片隅の町に越して来たオリガ(中川朝子さん)という一人の教師とキルギスの片隅の町に生まれ育った一人のジュイシェン(石渡弘徳さん)という少年がやがて青年になり、生まれ育った愛するキルギスを出て、国の為、人の役に立ちたいとロシア軍に自ら志願し兵士となり命を賭す作戦へと赴くまでを描いた物語。
 
 石渡弘徳さんの字を読む事も、書く事も、勉強するという事もオリガ先生と出会うまでしないまま育った12歳のジュイシェンがオリガ先生によって、学ぶ事、自分で考える事を覚え、ポプラの若木のような真っ直ぐで純粋な賢く優しい青年に育った時、戦争によりドイツなどに苦しめられている人々を助ける為に自ら志願し、ロシア軍に加わる事を選び町を出て、戦争の本質を目の当たりにし、命を賭す作戦に行く前日に、『何の為に勉強したのか。後悔している。』という手紙をオリガ先生に送り散って行くまでのジュイシェンの6年間を、移りゆく時間と共に少年から青年へと生い育って行く姿と変化を、声や仕草、表情で繊細に表現されていて、とても素晴らしかった。

 中川朝子さんのオリガ先生は、真っ直ぐな純粋さ故に戦地に赴き、戦う事が正義だと信じて疑わないジュイシェンを引き止めようとし、ジュイシェンの最後の手紙の『何の為に勉強したのか。後悔している。』という言葉に、自分がジュイシェンに学ぶ事を教え、自らの考え行動すると教えた事の真意がジュイシェンに正しく伝えられていなかったと思い、自分が学ぶ事を教えた為にジュイシェンを戦争に赴かせてしまったと打ちのめされ、自らを責める姿に胸を掴まれた。

 戦う事が正義であり、人を助ける事になると信じて突き進むジュイシェンとそうじゃないのだと引き止めるオリガ先生、どちらの気持ちもヒシヒシと伝わって来て、涙が溢れて止まらなかった。

 ジュイシェンの『何の為に勉強したのか。後悔している。』という言葉が、胸に重く響く。

 がしかし、ジュイシェンのこの言葉は、オリガ先生が受け止めたのとは、違う思いから発せられたのではなかったかと思う。

 ジュイシェンは、きっと、戦争の真実を目の当たりにして、あんなに先生が必死で引き留めてくれたのに、物事を自分の目で見て、耳で聴き、手で触れて、自分で考えて行動するようにと教え続けてくれたのに、その為の勉強、幸せに生きる為の勉強であったのに、オリガ先生の心と言葉に耳を貸さず、戦争の過ちに気づけなかった自分に対しての、『何の為に勉強したのか』であり、オリガ先生の言葉に耳を貸さずに戦争に加わったことを『後悔している』ということなのだと思う。

 何の為に勉強をするのか。それは、いついかなる時も、誰にも奪う事が出来ない、知識を得、自分で考える力をつけ、教養と知性を身に付ける為であり、無知は時に残酷な事態を引き起こし、その無知が引き起こした最も愚かなものが戦争だと思った。

 戦争は、ジュイシェンを奪っただけでなく、オリガ先生から、幸せに生きる為に学ぶ事を教える情熱をも奪い打ちのめす。

 そして、次回はいよいよ、打ちのめされ、教える事に恐さを感じ、躊躇い、憔悴し切ったオリガ先生が新たな教え子アルティナイによって再生して行く『木立によせて』~第二部『白樺のいたむ瞳』~へと続きます。
 
文:麻美 雪

麻美 雪♥言ノ葉の庭

昼は派遣社員として仕事をしながら、麻美 雪としてフリーのライター、作家をしています。麻美 雪の詩、photo short story、本や音楽、舞台など好きなものについて、言葉や作品を綴っております。

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