昨日、『木立によせて』を観た時、『最後の授業』がふと頭を過ぎったと書いたが、『最後の授業』どんな小説かについても触れておく。
『最後の授業』は、アルフォンス・ドーデの小説。
フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツは、その日も学校に遅刻し、担任のアメル先生に叱られると思ったが、先生は怒りもせず寧ろ穏やかに席に着くようにフランツに促す。
いつもと違う教室の雰囲気にふと振り向くと、後ろには元村長や村の老人たちが正装をして集まっており、アメル先生は教室の皆に向かってこう話し始める。
「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」というアメル先生の言葉を聞き、フランツは激しい衝撃を受け、学校をさぼろうと考えていた自分を深く恥じる。
アメル先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、アメル先生の最後の授業に聴き入り、やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴るのを聞き、アメル先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えるという内容。
『最後の授業』の「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」というアメル先生の言葉とアルティナイの『先生から教わった事は誰も盗むことは出来ない私の宝物』という言葉と重なる。
『最後の授業』のアメル先生と『最初の教師』を下敷にして書かれた『木立によせて』のオリガ先生。どちらも戦争のさなかに子供たちに勉強する事とその意味と大切さ、勉強した事を基に自分で考え行動する事の大切さ、そして1度自分の血肉となった教養と知性は誰も奪えないという事を訴えている点が『木立によせて』の下敷になった『最初の教師』と重なり、更に『木立によせて』にも重なった。
『木立によせて』と下敷になった『最初の教師』、それに重なって見えた『最後の授業』について触れたところで、次回、『木立によせて』~ポプラの淡き翼編~へと続きます。
文:麻美 雪
0コメント