今回、一つの話をAチーム、Bチームの2組のチームとキャストで上演したのだが、Aチームには、芸術集団れんこんきすたの常連の如く出演されている濱野和貴さん、Bチームには、こちらも芸術集団れんこんきすたの舞台には欠かせない小松崎めぐみさんが出演されていたので、両チーム観たのですが、両方観て良かった。
同じ話しなのに、各々のチームの醸し出すものや色が全然違い、Aチームでは、漫才コンビが女性コンビの設定だったのが、Bチームでは男性コンビになっていたり、それぞれの役が、役者によって、動きや仕草、それぞれの描き出す人物が基本的な性格は抑えつつ、表情や表現、動きが微妙に違い、両チームでそれぞれ駅員のローレンコ三郎、漫才コンビヤマトヤマシロ、戸村さん、駅員の高島、戸村の友人友紀、極度の人見知りの謎の男佐々木になっていた。
漫才コンビがAチームの女性がBチームでは男性になっている、それだけで目線が変わるので同じ台詞を言っても受け取る感じが違うのが良かった。
Aチームの濱野和貴さんのローレンコ三郎が、明るさの中に生粋の四番村人ではなく、両親が外国人故に四番村の中では見下され、阻害される外国人として孤独と悲しみを抱えているローレンコなのに対して、Bチームの村松優太さんのローレンコは、真面目でまっすぐな少年性を感じさせた。
漫才コンビヤマトヤマシロは、Aチームは女性で、のっけから相方だろうが駅員だろうが相手構わず一方的にまくし立てる藤本陽子さんの鈴木最初は嫌な女だと思ったのが、その喧嘩腰の態度は、迫り来る得体の知れないと不安に押し潰されそうになり、怯えている故の態度で、その事に気づいた時同じ女性としてその怯えゆえの態度が腑に落ちるのに対して、Bチームの藍沢悠助さんの鈴木は、また、それとは違うもっとこう、自分の中に抱えている孤独や自身のなさがじわじわと四番村に迫り来る不安な誘発されて噴き出したもののように感じた。
ヤマトヤマシロのAチームの相方の乃村裕さんの本多は、鈴木からはのんびり何事もふわっと受け流して暖簾に腕押しのように言われながら、そんな鈴木をのんびり何処か母のような、姉のような眼差しで見つめ赦し、受け止めているのに対して、Bチームの調布大さんの本多は、のほほんとしているように見えて、四番村の空に浮かび、巨大化してゆく狸のようなパンダのような雲の影響で体調を崩してゆく鈴木に対して、父のような親友のような大きさで包み励ます本多だった。
Aチームの浜野なおみさんの戸村さんは、飄々とした明るさの中に、高島に対する想いを秘めながら押し隠し、高嶋のみならず周りにも不安を感じさせまいと明るく振る舞うのに対し、Bチームの小松崎めぐみさんの戸村は健気で切なくて何処か少女のはにかみを纏った戸村で、AチームBチームの戸村に、最後はキュンと胸が痛くなった。
高島は、AチームもBチームも、のんびりしていて、なにごとにも動じないというか、感じない或いは感じているのに、感じていないように、気づいているのに気づかない振りをし、見つめなければ行けない事柄から目をそらし続けているやうに見える点は共通しているのだが、Aチームの市村大輔さんは、のんびりと言うより高島の繊細な鈍感ぶりが仄かに強く感じる様に描き出し、Bチームの青澤佑樹さんの高島は、のんびりと温かみがありながらほんのりとした強さを持っている感じがした。
ローレンコ三郎の四番村に住む外国人は、この村に来た初代か、この村で生まれたか、この村の馴染み方によって階級付され、その階級が分かるように色分けしたバッチを付けられる所が、ナチスに弾圧されたユダヤの人々と重なり、ラストの途切れがちに駅に流れるアナウンスが聞こえなくなり、舞台が進むにつれ徐々に減って行った人々が全ていなくなり、部屋の灯りがぶっつりと消えるラストは、去年観た『そして誰もいなくなった』のラストを思い出した。
『そして誰もいなくなった』と言えば、Aチームで、本多を演じた乃村裕さんは、『そして誰もいなくなった』にエイミー役で出演していた方で、その前にはこちらも同じアガサ・クリスティ原作の舞台『評決』にも出演していらした。
後日、小松崎めぐみさんから教えて頂いた情報によると、四番村に不安の影を落としていた元凶の巨大化してゆく狸のようなパンダのような雲は、事実を確かめる術はないので本当のところはわからないらしいのですが、ドクロの雲なんだそうです。
考えるというより、心にしみじみ沁み込んで来る舞台だった。
文:麻美 雪
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