2019.2.3㈯ PM12:00 池袋シアターKASSAI
冬の陽射しに温められたとは言え、まだ冷たい風の吹く節分の昼下がり、池袋の駅から池袋シアターKASSAIへと、石橋知泰さんが出演される演劇企画ニガヨモギの常田富士男追悼公演『カンガルー』を観に向かった。
久しぶりの池袋シアターKASSAI 。劇場の中に入り、前から2列目の真ん中通路側の席に座る。目の前に在るのは舞台中央に置かれた一隻の小舟と、舞台右手にある街灯。舞台装置はたったそれだけ。
その削ぎ落とされた空間で紡がれてゆくのはこんな話し。
船出をしようと波止場にやって来たひとりの青年が、乗船手続きをするために船長とおぼしき老人に声をかけるが、カンガルーは船に乗れないシキタリがあると断られてしまう。
青年は、当然、自分はカンガルーなんかではないと否定するが、船長始め同じく船に乗ろうとして持っている出国書類が偽物と老人に決めつけられ乗船拒否される若い夫婦など、いつのまにか周囲の人間たちも男をカンガルーとして扱い始める。
途方に暮れる青年の元へ、自分も〝同類〟だと告白する娼婦が現れ、男の船出を手助けすることになるのだが‥という筋立て。
舞台上で奏でられる生演奏と歌と芝居で紡ぐ、音と光の物語。
ひとりの青年が導き出したささやかな祈りとはなんだったのか。人々の孤独と生き様をコミカルに描いた別役実の不条理で不思議な音楽喜劇であり、昨年亡くなった俳優常田富士男さんの孫の市村みさ希さんが、生前、常田富士男さんが演じた『カンガルー』を常田富士男追悼公演として、演出し娼婦役として出演した舞台である。
生前、常田富士男さんと共演し、市村みさ希さん演じる娼婦のヒモ役で出演されていた石橋知泰さんは、演出補助もされていた。
観終わった後、まず思ったのは「難しい」。この舞台の内容を、この舞台を観た皮膚感覚と感想を言葉にするのは、「難しい」という事だった。終演後、石橋知泰さんにお会いした時に、正直にそう吐露した。
その時、石橋さんも仰っていて、私自身も感じていたこと。それは、別役実の舞台は、一筋縄では行かないということ。観る者によって、解釈が委ねられ、正解がないからであり、不条理劇でもあるから、内容を説明しようとしても出来ない。
別役実の世界は、理解しようとしてはいけないのだ。と言うより理解しようとしてもおいそれとは理解出来ず、理解しようして観ると余計にわけが解らなくなる。
だから、ただ感じる。その時その場所で、紡がれ織り成されてゆく物語を観て、自分がどう感じ、何を感じたか、その事に身も心も委ねればいい。自分が感じたものそれが全てであるのだ。
一人一人、観た観客の数だけその人なりの答えと思い、感じ方があるそれで良いし、そういう舞台なのだと思う。
なので、私も素直に内容の感想を言うのを辞め、感じたままを綴る。故に、いつもと違い未完成と取れる感想になるだろう。
別役実の芝居は「難しい」。それは、解釈が委ねられ、正解がないからであり、不条理劇でもあるから、内容を説明しようとしても出来ないからだ。けれど、オープニングとラストの金色の光が降り注ぐ小舟を囲み歌いながら踊り回るその光景は神々しいような美しさがある。16歳の時に観たクロード・ルルーシュの『愛と哀しみのボレロ』の、ジョルジュ・ドンが、映画の冒頭とラストで踊る長尺の『ボレロ』と奇しくも私の中で重なった。それはまるで、幼い頃読んだ御伽噺のような美しさでもあった。
「カンガルー」だと決めつけられ、自身でもカンガルーなのかと思い始め、人としてのアイディンティティさえ揺らぎ始め、自身の死に青年(宮口嘉行さん)が唯一願ったのはインドで飢え死にをし、その骨をホトケ様に舐めて欲しいと願い。全てを受け入れて、諦め抗い、最後に全てを受け入れ赦しているような青年の末後の瞳な中に映り、胸に去来した思いとは何だったのか。
街の人たちには、娼婦に暴力を振るっていると思われている娼婦のヒモ(石橋知泰さん)の中に入りある娼婦への労り、想いは愛を孕んでいたのではなかったか?だからこそ、娼婦の願いを聞き、次第にカンガルーと言われた青年を助けるような、もしかしたら娼婦とこのヒモ岳がカンガルーと呼ばれた青年を理解しようとし、理解し得たのではなかったのか。
少し賢さが足りないと思われている娼婦(市村みさ希さん)は、実は、ヒモである男をその無垢な天孫爛漫でコントロールし、人の本質を本人の自覚とは無縁に本能で感じ取り、他人には分かり得ない自分の尺度を持って生きているのではなかったか。実は、誰より柳のように折れないしなやかな強さを持っていたのではなかったか。
老人(小磯一斉さん)は、青年を執拗にカンガルーだと言い、青年にそう思い込まそうとし、若い夫婦や青年のみならず、波止場から乗船しようとする者を舟に乗せまいとし、青年の胸をナイフで刺したのか?
考える程に解らなくなるのだが、何かが胸に刺さり、抜けない透明な魚の小骨のように残り続け、言い知れぬ切なさが胸を浸す。
不思議な物語の本の中に、迷い込んでしまったような舞台は、不条理も可笑しみも、切なさもあるのだけれど、観終わった後に、とても美しく幻想的な夢の中を彷徨ったような、不思議なまろさのある舞台だった。
文:麻美 雪
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