2018.11.22㈭ PM19:00 東新宿アトリエファンファーレ
八幡山ワーサルシアターで、『豪華版 男おいらん 朗読劇』を観た足で、東新宿アトリエファンファーレへ、飯田南織さんが出演されたベニバラ兎団プロデュース、4人芝居『或俳優の殺意』を観に向かった。
階段を降り、劇場の中へと入ると、舞台にあるのは、壁と天井から吊り下げられた幾つもの金縁の額縁と時に椅子になり、時にテーブルになる数個の四角い箱のみ。
事前に分かっていた内容は、フライヤーに書かれた『現実という舞台で、人間という悪魔を演じたと或る俳優。これは、実際にあった事件を基にしたtheatrical crime story..』という数行のみ。
実際に会った事件を基にしたというこの舞台を観始めて頭を過ぎったのは、昭和51年に起こった有名男性歌手が愛人を殺害した事件。
1976年(昭和51年)5月8日、羽田空港の駐車場に止めてあった乗用車のトランクから血がこぼれ落ちていたことから、元クラブホステスで男性歌手の借金返済のため風俗嬢となった愛人の死体が発見犯され、犯人は愛人で男性歌手で、妻子がありながら妻とは離婚したと嘘をついていたのが、愛人の知るところとなり、人気が低迷し仕事が減って来た歌手に、カムバックの話が持ち上がり、別れ話をしたがもつれ、カムバックの足手まといになると思い殺害。8月、懲役10年の判決が下り、服役し、晩年は、幾つもの病に倒れた末に亡くなったという事件。
この舞台が、この事件を基にしているのか、別の似たような事件を基にしているのかは分からないが、私の頭に最初に過ぎったのがこの事件だった。
仕事のない俳優小栗潤一(久下恭平さん)が、出会い系サイトに登録し出会った二人の女。
1人は、市役所に務める恋愛経験もなく、友人もなく、漫然と日々をやり過ごし、働くだけの孤独を抱えた30代の女美咲(飯田南織さん)。
もう1人は、心臓の病を抱える弟阿南(エドさん)の面倒を見ながら、弟がきつ発作を起こすか分からない為、外出もほとんどせず在宅で仕事をし、弟の面倒を見ることだけで日々が過ぎてゆく、こちらも恋愛も何も弟を少しでも長く生かす為、弟中心の生活を送り弟からは自分の為に犠牲になっていると思われ、心の深くに孤独を抱える女祥子(青野楓花さん)。
祥子と会い、恋に落ちた小栗は祥子とのデート代や祥子の弟阿南の心臓の手術費用を貯金がある美咲から引っ張る為に、美咲とも付き合っているが、美咲には退屈さしか感じない。
やがて、貯金を叩き切った美咲は闇金に重ねた借金の為、市役所を辞めデリバリーヘルス嬢になり、一方的にお金を出してもらう事が苦痛になった祥子もまた、小栗から借りた弟の手術費用を返そうと美咲と同じ店で働くようになり、美咲が自分の為に風俗嬢になり、祥子もまた、良かれと思って美咲から引っ張り祥子に用立てた金が、祥子の負担になり風俗嬢になってしまったことに絶望し、祥子の為に祥子の友人という設定の架空の女になりすまし、電話で励まし続けていた阿南を、美咲を架空の女に仕立てあげ、ドライブへと誘い出し殺害させた事から、祥子にも憎まれ、全てを失う所で終わる。
はっきり言って、重い話である。重いは念(おも)いでもある。それぞれが、抱えて生きて来た念いが、最初はたわいのない1粒の火が引火して、それぞれの心の奥深くに押し殺し、隠した孤独と絶望が、弾け飛び、救いようのない程の痛ましい結末、破滅、絶望へと押し流して行ったのではなかったのか。
小栗にしても、最初は下衆な男と思っていても、見てゆくうちに祥子に対する想いは真剣であったし、貯金の範囲で美咲からお金を引っ張っていたと思っていたのが、美咲が風俗で働いてまで工面していた事を知り、初めて美咲に体温を感じ、ある意味無償の愛を注ぎ続け責めない美咲に、僅かに愛を感じ始めたであろう姿を見るに至り、この人もまた、深い絶望に絡め取られた悲しい男なのだと思った。
美咲の行動は、客観的に見たらあまりにも愚かで、痛ましい。けれど、小栗に金蔓と思われていることに気づきつつも、人から必要とされていることに喜びを感じ、満たされる。だから、小栗の仕打ちを責めもせず、求めもせず無償の愛を捧げ続けられたのかも知れない。例えそれが、間違った方向、愚かな行動と選択だったとしても、美咲には何よりも幸せでかけがえのないものだったのだろう。その事を思う時、ヒリヒリとした痛みを伴う愛おしさが込み上げる。
病弱な弟が、全く枷になっていないと言えば嘘になる。時々は、全てを放り投げて自由に生きたいと思った事もあるだろう祥子。その反面、弟が生きている事で自分の存在意義を見出しているような祥子もまた、阿南の面倒を見ることで自分が必要とされていると感じて生きられていたのではなかったか。阿南と祥子は、共依存の関係だったからこそ、阿南が死にたがるのも、阿南が死ぬこともあんなに恐れたのではなくなかったか。
阿南は、姉の負担になっている事だけでなく、治らない、長く生きられない事も知っているのに、生きろ生きろと言われる事に疲弊していたのではなかったか。けれど、生かそうと必死になる姉と、自分の為に生きる事で生きられている姉を感じている阿南は自ら死ぬ事も出来ず、ある種の絶望を囲っていてのではなかったか。だからこそ、淡い恋心を感じた祥子の友人の女だと思っていた美咲に、刺された時、薄れゆく意識と命のなかで、本当はこうして死なせて欲しかったと感謝したのではなかったのか。
観終わったあとに全身を満たしたのは、今まで感じたことの無い、感覚と感情に全身全霊が呑み込まれ、翻弄されていて、ライターという仕事をしているのに、言葉も涙もすぐには出ないという衝撃。それだけ、深く衝撃を受けた凄い舞台だった。
心が抉られる、胸が抉られるなどと言う生易しいものでなく、魂が抉られ、軋み、痛み、悼む舞台。なのに、嫌悪や怖さ絶望でなく、生命や生きること、求め求められる事、必要とし必要とされる事それらを含め、誰かを念(おも)い、更にそれを含めた愛するという事、様々な事を考えた。
よしんば、人の立場に立ち、気持ちを想像する事は出来たとして、その人の気持ちを理解する事は出来ないのではないか。殺人犯の気持ちをその人物その者になって理解するなど出来はしないし、しない方が良いのかも知れない。理解する事はややもすると同化し取り込まれてしまう事だから。
今回、『或る俳優の殺意』の観劇ブログ書くのに時間を要した。そう簡単においそれと、面白いとか素晴らしいとか書けいてはいけない舞台だと思ったからである。
面白い、楽しいと言うのとは対極の所にある舞台だけれど、これだけ深く魂を抉られ、味わったことの無い衝撃と感覚を味わった舞台はなかった。きっと、いつまでも、記憶と心に残る舞台だと思った。
文:麻美 雪
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