2018.2.10㈯PM14:00 阿佐ヶ谷シアターシャイン。
受付を済ませ、上がる階段に紅い薔薇の花びらのように切られた紙が、血の跡のように劇場の中まで続くのを辿るように、客席へと進む。
座った正面に、夜の闇のように黒い床の真ん中に真紅の布が敷かれたその先に、鮮やかな色彩の美しい花に囲まれた玉座がある。
玉座へと続く真紅の布は、これから起こる血の洗礼が流した血なのだろうか。
花に囲まれた玉座の上で、滲むように坐す人の気配。
この日この回だけのイベント、目をレースの布で覆った1人の盲目の女性が現れるや、美しく劇場を震わせるような歌声で今から始まる物語に因んだオペラの歌曲とCATSの『メモリー』を朗々と歌い上げる。
その人の名は、椿綺透子さん。本格的に声楽を学んだであろうと思われる、声量と圧倒的な歌唱力、時に力強く時に繊細な美しく響く声で歌われるオペラもメモリーも素晴らしく、これから始まる物語へと期待に胸が膨らんだ。
あの世にもおぞましくも美しく妖しく、そして悲しい絶望に満ちた『サロメ』の幕が開く。
オスカー・ワイルド原作の『サロメ』そのままのストーリーを想定している人には、衝撃的だろうし、原作そのままの舞台を良しとする人には、賛否が分かれることと思う。
台詞の中に頻繁に出てくる、映像や書店に並べる出版物では、いわゆる禁忌語、差別語とされる言葉もあり、それが気になるという人もいるだろう。
普通であればその言葉をいう役者に不快感や嫌悪感を感じることもあるだろうが、それを感じなかったのは、恐らくその言葉の対象になる者に対しての侮蔑も差別も誤った認識も偏見も持っておらず、寧ろその側の気持ちに寄り添う立ち位置を持っているからだろうと感じた。
その上でひとつだけ、『オ○マ』という言葉だけはどうしてもそこだけ耳に強く響き過ぎて気になったので、違う言葉の方がいいのではと感じた。
それらを含めた上で、私はこの『サロメ』が好きだ。
それは、劇団TremendousCircus(トレメンドスサーカス)の『サロメ』が、サロメの愛の、それも純愛の物語として描かれているからであり、サロメの目線から見た、サロメの純粋過ぎる故の狂気の愛へと昇華してしまった物語だと感じたからだ。
サロメの純愛は殉愛でもあると思う。
知乃さんのサロメを観た時、阿部定が重なった。知乃さんのサロメは阿部定だと思った。
稀代の毒婦と言われた阿部定。
近年史実に基づいたドキュメンタリーや阿部定の視点で描いたドラマやインターネットで調べて見たところ、それまで報道で取り上げられたり、映像化されたものから受ける印象とは違い、私が思ったのは、阿部定は1人の男を愛し過ぎた為に、いつかその男が自分の元から立ち去ることに怯え、愛し過ぎたが故にこの愛をこの愛おしい男と永遠に繋がっている為には、愛おしい男と完璧にひとつになるには、愛の絶頂、幸せの絶頂のその時に男を殺め、男を象徴するその体の一部を肌身離さず持つに至るしかなかったのだということ、そしてそれは阿部定にとっては純愛であり、殉愛だったということ。
命を奪われた男もまた、そんな阿部定の思いを受け入れ、同調し、男自身もふたりの愛と幸せが絶頂のその時に、永遠に続繋がり身一つになる事を望んだのではないかということ。
そして、サロメのヨカナーンの愛もまた、阿部定のそれであったのではないだろうか。サロメはヨカナーンを愛し過ぎた。その愛は、純粋過ぎて、いくら想ってもイエスに愛を捧げているヨカナーンには届かないどころか、ヨカナーンはサロメの愛を退けようとする。
退けられるほどにサロメの想いは募り、受け入れられないことに切なさはと愛しさは増し、それはやがてサロメの愛を狂わせて行き、自分の軆を義理の父であるヘロデ王に差し出し、7つのヴェールを脱ぎ捨てて踊る事を引き換えにヨカナーンの首を所望させたのではないだろうか。
そのヨカナーンにしても、イエスへの愛は片恋のそれであり、ここにもまた届かない想いが蹲る。
ヨカナーンの首をその腕に抱いた時、サロメはやっと気づく。愛しさのあまり殺めたヨカナーンの冷たい唇に触れた時、その目は永遠に自分を見つめ、愛を囁くこともなく、愛しいヨカナーンを永遠に喪ってしまったことに。
その事に気づいた時のサロメの絶望、サロメの血を吐くような切なさに嘆くサロメが愛しく思えてくる知乃さんのサロメ。
この『サロメ』は、愛の物語。
サロメという少女の殉愛の物語であり、国も性別も年齢も越えた、全ての人間という生き物が等しく持つ愛の物語であり、母と娘の愛の物語をも含んでいる。
サロメの母、ヘロディアスもまた、娘と相容れない、前夫を裏切り、その弟ヘロデ王と婚姻した事で稀代の悪女のように言われているが、前夫を裏切ったのも、サロメに邪な愛を抱く夫ヘロデ王からサロメを守る為、全ての女性の為に、敢えて、悪女を装った。
その事を知った時、相容れず、母を憎悪していたサロメは、母を赦し、母娘になった。
そこには確かに、母娘の愛があった。
中村ナツ子さんのヘロディアスは、貫禄とサロメ、虐げられている女性への愛を見事に描き出していた。声の抑揚で、時に強く、時に優しく、悪女にも娘への愛を胸のそこに深く宿した母、ヘロデ王を愛した妻を描き分け、感じさせた。
今までにない、新しい視点から見た、新しい解釈の『サロメ』を私はとても好きだ。
私見ではあるが、だからこそ、満席だったから仕方ないとは思うのだが、開場した時に、舞台と最前列の間が殆どない為に、舞台を通って客席に座って良いと誘導していたのと、何人かの役者さんが、常に声を張り上げていて、一観客として観た時に、言葉が聞き取れない箇所が多くあったのが残念だった。
緩急があると、より言葉が聞き取りやすく、更に感動が増すように思った。
劇団TremendousCircusの『サロメ』は、今までにないサロメの視点で描いた、愛の物語。
込められた思いを知った時、ラストのサロメの言葉、母ヘロディアスの言葉を聞いた時、涙が出る零れた。
文:麻美 雪
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