音楽が止み、ぼんやりとした証明の中、一人の少女が無邪気な笑顔で、駆け込んで来るが、一瞬の間に少女は何を見たのか、何の気配を感じたのか、あどけない笑顔が瞬間に強張り、何かに怯えたように不安げな表情になった刹那、暗転し、一瞬闇の中に閉ざされる。
仄暗さの中に浮かび上がった真紅の玉座とも見える一脚の椅子。その上に立つ、一人の女(中川朝子さん)。クマリとなる少女を選び、クマリハウスへと連れて来た女。
女の前で何かに怯えたように、苦しげな顔をして『これ以上は無理です。』と訴える少女。彼女こそが女によってクマリに選ばれ、あどけない笑顔を不安に強ばらせていた少女。
昨日のブログでも触れたように、クマリになるには、笑っても、手を叩いても、泣いても、目をこすってもいけないなどの禁止行為があり、クマリになるには、病気や怪我をした事がなく、出血したことのない初潮前の少女である事などの32もの条件があり、それらをクリアした少女がクマリになる。
少女が何に怯えていたかというと、クマリになるには、壁にかけられた108の牛の首を目を逸らさず見つめるという条件を満たす為に、牛の首を半分まで見たところで、怨むように少女を見つめる牛の目であり、首に怯えていたのである。
少女がクマリに選ばれたのは、3、4歳。クマリになったのは、少女の意思ではなく、選定者により、一方的に選ばれ、強制的にクマリへと押し上げられた。
選んだ運命ではなく、『選ばれた運命』を受け入れた少女は、その運命をどう変えてゆくのか、その事が気にかかり、惹き込まれるようにしてクマリを見つめ続けた。
幼くして、両親から引き離され、クマリハウスで、髪としての振る舞いを教えられ、社会や世間の情報や外の世界と隔離され、クマリとしての生活しか知らない少女。
それを、不幸だとか可哀想だとか安易には言えない。何故なら、物心ついた時からそのような環境で生い育って来たクマリにとっては、それが普通で当たり前の世界であり、生活であり、自分の置かれた状況の異常さや可笑しさに気づくはずもなく、外からの情報が入って来なければ、此処から出たいともクマリで居ることを辞めたいとも思わないだろうし、そもそも、自分の存在や置かれた状況に疑問を感じないのではないだろうか。
その少女に、『あなたは不幸だ』と言われてもピンと来ないだろう。
そんなクマリが、外の世界と接触し、自分の置かれている状況が可笑しい事、クマリという自分の存在自体を疑問視し、不要だと感じている国民が居ることを知ったらどうなるのだろう?
10代の少女へと成長したクマリの前に現れた一人の女(中川朝子さん)は、クマリ存続の必要を認めるか否かの判断を下す為に遣わされた、政府の調査官であるその女に、様々な質問をされても、クマリとしての教えを受けたままの模範的な受け答えをしていた少女が、調査官の女の『国民の大半はクマリを必要としていない』『クマリの力を信じていない』という言葉に、初めて心が揺らぎ、涙が頬を伝い落ちてゆく。
この瞬間の、クマリから封印していた一人の少女として顔に変わり、自分の信じて来たものを根底から否定され、受け容れ揺るぎない核として保ち続けていたクマリとしての確信と矜持が崩れさり、戸惑い、怯え、悲しみ、途方に暮れているクマリの、そして、一人の少女としての心情を映した小松崎めぐみさんのクマリの表情の変化に胸を掴まれた。
この瞬間、初潮ではない出血をし、その場で少女はクマリの任を解かれ、微々たる報酬と共にクマリハウスを追い出され、一人の少女に戻る。
けれど、クマリとして生きる事しかして来なかった彼女に出来る仕事はなく、持たされた微々たるお金も、少女期の貴重な10数年を労うにはあまりにも僅かで、お金も底を尽き、家にも居づらくなり、流れ流れて、ネパールの別の土地へと流れて物乞いになり、荒んだ生活を送る彼女の前に、かつて、自分もネパールの他の土地のクマリであったと名乗る老女(中川朝子さん)。
自分は力のあるクマリで、自分の力で国は回っていたような口振りの老女は、いくつになっても初潮がなかったのに、若いクマリをと言うことで、初潮も出血もしていないのにクマリを追われたことを怨み、恨みの念で自分をクマリから追い落とした者達に災いを起こしたと嘯く老女に、散々罵詈雑言を喚き散らされる中で、荒んだクマリの顔にまた、憑き物が落ちたような表情が現れる。
クマリの前に、現れた3人の女(中川朝子さんの3役)は、実は全て、神様が姿を変えて、クマリの前に現れ、クマリであった少女に、次々と試練を与えたのではないかということに気づいた時、それが、社会や世間から見た時に、不幸だとか、非人道的と見えたとしても、生き神クマリとして生きる中で教えられた事の中には、生きる為に必要な核とするに足る、素晴らしい教えもあった事に気づいたのではないだろうか。
その事に気づいた時、彼女は、奪われた10数年間とクマリとして生きた日々の全てを、受け容れ、全てを清流に洗い流して、一点の曇も染みもない、清らかな物だけを掬い取り、クマリとして『選ばれた運命』を、自らクマリとしての生きた事を肯定し、『転換する宿命』へとかえたのではないだらうか。
それは、クマリとして選ばれた運命を、自らクマリとして生きる運命を選んだのだと、思うに至る少女の心の軌跡ともいえるのではないだろうか。
90分という時間の中で、小松崎めぐみさんは、一人の少女がクマリとして生き、クマリの任を解かれた後も、自分の中に『神』を持ち、選ばれた運命を自ら選び取った宿命を生きる一人の人として立って行く少女の軌跡をその眼差し、その仕草のひとつひとつ、声の色彩、繊細な表情の動きで魅せ、描き切っていて素晴らしかった。
ネパールのクマリは、今もまだ存続している。これから、この生き神信仰クマリがどの様な行末を辿るのかは、定かではない。
けれど、このクマリをただ、非人道的、可哀想だと言うだけでは語れない、何かがある。
クマリとは何なのかという事を、深く考えされされ、生きるということ、女性だけでなく、この世に生きとし生けるもの全ての人が、誰でも直面するであろう、生きるとは、自分であるという事とは、運命と宿命、何を選び、何を選ばないのかそんな事をも考えさせられた。
文:麻美 雪
→『かつて、女神だった私へ』~中川朝子編~に続く。
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