先月、飯田ナオリ1人朗読劇PLUS『風曜日シアター11』を観に行く前に、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムに寄って、観た『ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター展』。
訪れたのは、風が強い土曜日の昼下がり。
新型コロナウイルスのニュースが連日、ニュースを賑わせ始めた頃。今ほど、エンターテイメントやイベントの自粛、中止要請が緩やかであったとは言え、このまま行けばこの写真展も開催期間半ばで中止になるかも知れない予感がして、観劇前に足を運んだ。
雨催いとコロナの影響かいつもよりは人出が少なく、濃厚接触の恐れもなく、静香にゆっくりと観ることが出来た。
ソール・ライターと言えば、雨、雨粒、水滴、雪をモチーフとして好み、モノクロの中に一点だけ色彩を施すポイントカラーと、映り込み、1/3構図という、独特の写真を思い浮かべる。
ソール・ライターの写真を昨年、書店でたまたま見つけてパラパラと初めて見た時感じたのは、切ないけれど見ていてほっとする写真だということ。
今回『永遠のソール・ライター展』で観た時、ソール・ライターの雨の写真の雨は冷たくなく、温かく包み込むようなやさしい雨のぬくもりと質感を感じた。
それは、ソール・ライターの人や物、この世の全てに注ぐ眼差しそのままが表れているように感じた。
ソール・ライターは、恐らく、見ようとしないで撮っているが、その事によって見る側が勝手にソール・ライターの写真から想像し、何かを見つけてしまう。ソールライターの写真はそんな写真のような気がした。
見る事が好きだったというソール・ライターが、探そうという意識を働かせず撮ったものが、結果として何かを探し当て、写真に写っているというのがソール・ライターの写真なのではないか。
とすれば見る側も、見つけようとすると見つからないが、見つけようとせずに、何も考えず、見つけようとしないでみる時、写真の中にふと何かを見つけるのではないか。その見つけるものは、見る者一人一人によって異なるだろうし、見つかる、見つけるというのもまた、ソール・ライターの写真にとっては、おまけのようなもの。
ファッション写真を撮っていたソール・ライターがファッション写真を撮らなくなって言ったのは、スポンサーの意向が色濃く反映されてゆき、思うような写真が撮れなくなった事への息苦しさからだという。
この『永遠のソール・ライター展』は、いつもの人生に潜む、大切なものを探し続け、撮り続けたソール・ライターを感じる事の出来る写真だった。
『大切なのは、何を手に入れるかではなく、何を捨てるか』と言ったソール・ライター。
雨も時間も止まったような静かなザ・ミュージアムで、ソールライターの写真を観て感じたのは、ソールライターの写真は、雨の匂い、雪の香り、音のない雨音、モノクロは色を、カラーはほんのり色彩を感じさせるモノクロに、鈍色の雨空の色が温かく感じる、そんな風に感じる写真だということと、そんなソール・ライターの写真が好きということ。
文:麻美 雪
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