2019.10.19㈯PM13:00 シアターシャイン
今にも雨が降り出しそうな鈍色の阿佐ヶ谷の空の下、葵ミサさんが出演していたまるでゆめのようだ第六回公演『うまれおちます、オペレッタ!』を観にシアターシャインへと足を運んだ。
劇場へ入り、最前列の真ん中の席に落ち着き、目を上げると目の前には舞台装置は無く、白一色の世界が広がっていた。
この本の空白のような舞台で繰り広げられるのは、今まさに、幕が開き、舞台の上に生まれ落ちた名前のない主人公が、何のために生まれ、此処で何をすれば良いのか、自分の生まれた理由と存在する意味と役割と名前と自分を探しに、様々な物語の世界へ迷い込み、旅をする物語。
目の前で展開する物語に疑問を持ったとしても、どんなに切なくて、悲しくて、痛ましくても、幸せでも、本も芝居も筋が決まっていて、必ず終わりがあり、本を開けば、同じ芝居が繰り返し上演されれば、その物語は永遠に同じ結末に向けて物語が繰り返される。
目の前の物語を観て、切なく、苦しく、悲しく、痛い或いは幸せと感じる主人公の心も思いもすらも神様の書いた“ 台本”で、それを演じさせらているのかも知れないと、物語をさすらい歩く度に、主人公も観客も、何処までが物語で、何処からが現実で何処からが台詞で何処からが主人公の言葉なのか、芝居と現実の境界線が分からなくなってゆく、今は役なのか自分自身で、どこまでが台本なのか、演じることを俯瞰して描いた不条理劇。
この物語の台詞の中に、小学3~6年の間、生きているのが辛かった時代、毎日自分は何の為に生まれ、自分の人生の意味、自分の人生、この世での自分の役割は何なのか、どういう意味があって私は存在しているのかを毎日考え続け、吐き気がする程に考え続けても答えが出ず、鬱々と過ごす事に飽きて辿り着いたのは、生まれてきたからには何らかの意味があるはず、ならば、自然に自分の命が潰える日まで生きて、命の終わりにああこういう事かと解れば良いし、解らなくても良いじゃないかという結論に辿り着いた時に思ったのと同じ言葉があった。
私の今経験している虐めという苦しみも、その中で私が自分で考え、自分の役割、生きる意味を見出させる為に神様が書いた物語を生かされているのではないかということ。
その時私は思った。今の状況はたとえ神様の書いた筋書きだったとしても、私は私を生きる為、めいっぱい足掻いて、めいっぱい生きて、私の言葉と生きる意味を、生まれた意義を獲得しようと。
そんな事を思い出しながら観て、改めて思った。人が生きるという事、私たちの生きる人生も神様が書いた大いなる“ 台本”なのかも知れない。私もまた、自分の人生の舞台に、今という時代の舞台に立って生きる役者のようなものだと心も思いも感情もたくさん動いた素敵な舞台だった。
文:麻美 雪
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